森と雨 3

「髪だって黒く染めたんだぞ、あのバカ。これならモテないだろうって」
「発想が貧弱すぎるわ」
 私はため息ついて、ゲンゴの隣に体を起こした。
「あんな奴とより戻せなんて、あんたも案外友達甲斐のないこと言うのね」
「あのバカが好きなんだろ」
 至極当然のことを言った。
「そうよ。あのバカが好きなの」
「あのバカのどこが好きなんだ」
 ゲンゴは重ねて私に訊いた。私は返事のつもりで、聞きたかったことを尋ねてみる。
「ゲンゴはむいちゃんのどこが好きなの。それがきっと私の答えよ」
「むいなあ」
 ゲンゴはむいちゃんへの片思いをこじらせて、誤解もあったりして、すれちがいもあったりして、一度は大学をやめて実家に帰ってしまったほどだったんだけど、なんというのかむいちゃんが追いかけて行ったというのか、めでたく誤解や擦れ違いが解消されて、今に至るのだった。おめでたいひとたち。
「むいの、発する言葉が好きだな」
「じゃあ私とおんなじね」
 ゲンゴは黙っている。黙って、文字の列を指でなぞっている。
「なんで悲恋歌なんて俺に読ませる。レアンが好きならそれだけの事だろう。お前たちは別に何に拒まれた間でもない。軽の兄妹とは違う」
「ゲンゴ、むいちゃんにやすくはだふれた気持ちはどうですか」
 私は難しい歌の中で唯一意味が受け取れたところを友達にぶつけた。ゲンゴは苦笑している。
「人んちの布団の中を邪推するなんて悪趣味もここに極まるだろう」
「ほう。もうあんたんちですか。一緒に暮らしてるの」
「それはむいの親御さんが許さないからな。とりあえずは俺が大学卒業して就職してからだ、いろんな話は」
「ほう、いろんな話はしているんだ」
 ゲンゴは私を向き直った。
「ああ、そうだ。俺たちはいろんな話をしている。だからお前も早くレアンと話し合え。あいつの体力がもっている間に。本当に見てて哀れだな、友人として。あいつこのままだと廃人になるぞ」
「私にも兄がいたのよ」
 廃人になるんだったら、いっそなってほしいと私は思った。そうしたらレアンも、もうこんなに神様みたいに、みんな好きになりたいなんてバカなことを言ったりしないだろう。人はけして、好きになる価値あるものではない。そんな素敵な出会いなんてこの世にはない。そのことにレアンだって気づくだろう。だから、私のことだって忘れてくれるだろう。私は朝起きた時夜眠る時にそればっかり祈っている。早くレアンの目が覚めますように、と。
「いた? 過去形だな」
 とゲンゴが言った。話をとばされたことには注意を払わないようだ。
「六歳年上の兄がいたの。私が高校生の時に死んだわ」
「それは。おくやみもうしあげます」
「いいのよ。誰も悲しまなかったから。くそったれ兄貴だったから」
 うそだ。私は、兄が死んだときの両親の嘆きを見てびっくりした。びっくりしたし、ああ私たちの親は、心の底からダメな人たちだったんだ。そういうことが分かったので怖かったし、絶望もしたし、やがて私が先に死んだらやっぱりこんな風に嘆くのだろうかと思ったら、かなり気持ち悪かった。そう、私たちの両親はかなりおかしな人たちだった。何がおかしいのか。頭だ。決まっている。
「本当にくそみたいな兄だったのよ。痴漢で補導されたり。万引きでつかまったり。振り込め詐欺しようとして警察にみつかったり。車からガソリン盗もうとしてつかまったり」
「全部つかまっているな」
「バカだったから。ああ、なんて言うことなんでしょう。私の身の回りにはバカな奴しかいないわ。せめてむいちゃんくらいはかしこいままでいてくれたらいいんだけど」
 そんなどうしようもない兄が死んだとき、両親は本気で嘆いていた。私は何がなんだかわからなかった。
 どうしようもない不良に育った兄を、両親は無かったことにしていた。警察に引き取りに行くとき、母は念入りに化粧をしていちばんきれいな色のスーツを着て行った。そしてスカートのすそを汚して、顔をぐちゃぐちゃにして戻ってくるのだ。
 いい家に育って、ちょっとの間だけおかしくなっているだけなんです、と、泣いて訴えて息子の減刑を泣きながら願う品のいいお母さん、を演じるために。私たちの親は世間体しか気にしなかった。世間に顔向け出来ていればどうだって良かった。

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