森と雨 9

 兄が飲酒運転の交通事故で亡くなったとき私は十六歳だった。死ぬ一時間ほど前兄は私をレイプしようとして、そのままいなくなってしまった。この世から、どこにも行けなかったこの世界から。
 その日その瞬間、私は自分の部屋で宿題を片づけようとだらだら机に向かってラジオを聞いていた。突然兄が入ってきた。
「なに」
 死ぬ前の何年か、兄は家にいることが滅多になかった。だれか友達に家に住んでいるのか、その友達と共同でアパートを借りて賭け麻雀でもやっているのか、で家賃が払えなくなると追い出されて他の友達の所に行くのか、そんなことを私は両親からじゃなくて近所のおばさんたちの噂話で知った。
 兄は不機嫌だった。いや、六つ年上の兄が機嫌よくしている記憶なんて私にはない。家にいる時は黙っているか、部屋に籠っているか、そうでなければ両親に暴言を吐いてまた出ていく。父と母はそんな兄にまったく構わずに、笑いながらテレビを見ている。なあ、この番組おもしろいなあ、なんて言いながら。兄はその笑い声を聞いて、玄関の傘たてとか無駄な額縁とかを蹴っ飛ばしたり叩き落としたりして、また出ていく。
 部屋に入って来るなり兄は私にラリアートするみたいに襲いかかってきて、勢いで椅子を倒した。私は何が起きているのか気付く前に、ベッドに押さえつけられていた。
 兄にどうされるかすぐに分かった。だから、出来るだけ声は出さないようにしよう、と私は決めた。レイプされそうになったら、させなさい、と前にテレビに出ている人から聞いたことがある。そうすれば殺されずにすむから、と。抵抗さえしなかったら、そんなに酷い目にはあわない。兄もそこまで酷いことはしないだろうと。そう頭の中で考えるのに二秒くらいしかかからなくて、私は自分自身のことを、悪魔か、とあきれていた、冷静な自分にむしろ怖気づいた。
 兄は最初私の両手を掴んでベッドに押さえつけて、それから片手を服の中に入れて、スカートと下着をはぎ取りあっという間に私を半裸にした。私は目をつぶっていた。だから兄がどんな顔をしていたのかは見なかった。怖くて見られなかったと言うより、見るもんじゃないと思っていた。どうしてだかわからない。あの時私が目を開けていたら、ひょっとして兄は死ななかったかもしれない、とその後私は随分考えたものだ。
 兄は私が抵抗しないのを知ると、今度は両手を使って残りの服とブラを外して、私の首筋に吸い付いてきた。そして喉から胸元、みぞおちへとゆっくり兄の唇が這っていく感触があり、時々はあ、と息を吐く音も聞こえた。
 これがせめられている感覚、ということは私にはわからなかった。ただ兄の手が体の、それこそ体のいろんな場所に次々に触れていくにつれ、私は頭の中の細い炉心に火がともったようになってしまって、多分それで体の中からろうが溶けてしまったんだろうと思う。
 黙っていようと思っていたのに、時々口をついて声が出てしまった。私は奥歯をぐっと噛みしめて全身に力を入れていたのに、兄の手がそれを簡単にダメにしてしまう。
 私は、おそらく兄にいかされたんだと思う。実は、この時しか誰かに肌をさらしたことがないので未だに分からない。あれが、果てるという感覚なのだろうか。兄に胸や下半身を触られていると、頭の中の細い火がゆらゆらして、でも、体の中はぐずぐず煮崩れてしまった。
 でもそれだけだった。私が兄の手によって完全に脱力してしまうと、突然兄はねころんだ私に抱き着いてきて、しばらくじっとしていた。
 最初はじっとしているだけだと思っていた。でもやがて気がついた。兄は肩を震わせていて、それで、泣いていた。声も立てずに、涙も流さずに、泣いていた。暴風雨の中みたいな泣きかただった。兄の体の中は本当に酷い嵐で、兄は逃げ場もなく、かくまってくれる人もなく、ただざんざんと濡れているしかない。
 兄の体の下というより、心の中に私がいた。でも私は嵐から守られていた。兄は泣きながら、でも服の下に必死で私を守ろうとしていた。だから兄は声も出せずに、涙も流せずに、ただ、ただ、泣き崩れていた。
 気がついたら兄はもういなかった。どのくらい一人でぼうっとしていたのだろうか。体が自由なことに気がついても、兄は居なくて、自分は全裸で、部屋の中はひどい有様になっていて、私はぼんやりしていた。
 兄は、私に何もしなかった。兄としては、彼自身を使っては何もしていなかった。ただ、触れて行っただけ。私に触れて行っただけ。でも知識の無かった高校生の私には、本当に何が起きていたのか理解できなかった。 そして私がぼんやりしたまま服を探している時、兄はもう死んでいた。
 兄は酒を飲み、免許を持たず、車を盗んで、そのまま走りながら事故を起こして死んでいた。身元が分かるものを何も持っていなかったし、両親はもともと兄に干渉しなかったから、兄が死んだと分かるまで一週間近くかかったのだった。なんて家だろう、と私は今考えている。

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