森と雨 16

「だからだれなの? 私はいまあなたを呼んだんじゃない」
 私を待ってくれていたのは、あなたじゃない。
「もちろん僕じゃない。でも、君を待っていたのは僕だよ」
「ちがうわ。あなたじゃない。私が会いに来たのは、あなたじゃないわ」
 どこに行ってしまったんだろう、もう会えないのだろうか。そう思ったら心細くて涙が出そうになる。
「心配しなくていい。すぐに会えるよ。僕と少し話をしてくれたらね」
「話? 何を話せばいいの? 本当に、あの人はここで私を待っていたの?」
「そうだよ。ずっとずっと待っていたよ。そして僕も君がここまで来るのを待っていた。ちょっと時間がかかり過ぎちゃったから、君にも苦労してもらったんだけど」
「私、すぐにあの人に会いに行きたいの。早くしてくれない?」
 そうしないと、本当に会える時間は無くなってしまいそうだった。
「僕はね。君が呼んでくれるのをずっと待っていたんだ」
「だからあなたじゃないわ。私が呼んだのは」
「じゃあだれのこと?」
 とその人は訊いた。
「それは…」
 私は、今さっき叫んだ人の名前を忘れてしまった。思い出したいのに、頭の中は空っぽだった。小石も落ちてない。投げるものも、ぶつかるものもない。全くの空白、そして暗闇。茫然としてしまった。
「だれのこと?」
 私は為すすべなくその人に問いなおした。
「僕はね、ヒの神。君の深層心理とも言えるし、魂と呼んでもいいものだし、単に生命力の塊なだけかもしれない。まあそういうもんだと思ってくれたらいいよ、アニムスという言いかたも出来る」
「わけが分からないわ」
「じゃあこういうのはどうかな。僕は君の生きる目的だ。そして、長い間ここで君のことを待っていた。なぜって君が僕のことをいつまでたっても見つけてくれないものだから」
 呆れたようにその人はため息をついた。
「私の、生きる目的?」
「そう。そしてさっき君はやっとそれを見つけたね。でも困ったな。思い出せないと僕も君も動きようがない」
「動けない?」
「そう。僕は単なるエネルギーの塊で、君がコントロールしてくれないと、本当の意味で君を導いてあげられない。君はここで待っていた彼の名前がやっと分かった。なのに、待たせすぎたから君の命がこじれちゃったんだ」
「どうしたらいいの? 私はここから動けないの?」
「そうだね」
 なんてことないさ、とその人は言った。
「逆にこういう考え方も出来る。ここにいれば君はもう一生何からもおびえなくていい。ここには、君が恐れているようなものは何もない。僕はこう見えて結構いろんなことが出来るから、僕と一緒にいたら、君が快適に過ごせるように努力はしよう。もう疲れたり苦しい思いをしなくていいし、何より君は一生不幸だ」
「不幸?」
「そう。君は不幸になるためにここに留まる。ここに残ったら快適に生きて行けるけれど、でも君は不幸だ」
 私はだんだん不安になった。
「あなたのせい?」
 と訊いた。
「いいや違う。これは君の表層心理の願い事。不幸でありたい、と。壁だね。その壁で、君は自分の心とか、神経とか、ひょっとすると僕のことを守っていた。不幸でありたいというのは君の表層が思っていたことだ。それが僕にまで届いてしまったから、僕でもお手伝いが出来るようになったと、そんなところかな。それじゃあ」
 とその人は肩を急に回しながら笑って私に訊く。
「君は本当にこれからも不幸でいたいかな?」
「そんなわけないじゃない」
「そうかな? 幸福は辛いだけだよ。僕は今君と話しているからよく分かる。君を通して壁の向こう側のことが伝わってくる。君は幸福に暮らしていた。そして、常に怯えていた。どうしてかな」
 そんなことを訊かれても。

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