森と雨 5

 むいちゃんは二回生で、私のことを先輩、と呼んでくれる唯一の存在だ。私はサークルに入っていないし、この学校には縦割りのゼミはない。それに私の普段の姿を見たら、誰も声をかけてこない。
 私は大学で「顔のない女」、あるいは貞子と呼ばれている。私の髪は今の所腰より少しだけ長いのだけど、私は大学に行くとき、結び目を前に持って行って髪で顔が隠れるようにしているから。顔を見られるのは好きじゃない。あの薄気味悪い両親を思い出す。
 雨はかわいいわねえ、よかったわ、女の子は見た目がよくないと。そうしてダメになってしまった両親のことを想いだすからいやなのだ。
 でもむいちゃんは、ゲンゴと知り合いになったというだけで、私とも親しくしてくれた。私の髪の事も顔の事も、事情を話したらすぐに受け入れてくれたのだ。だからむいちゃんは私の唯一の後輩なのだった。もし泣いて帰ってきたら、私はゲンゴのバカをぼっこぼこにしてやろう。そのかわいい後輩のむいちゃんが、心配そうに私と向い合せにちゃぶ台に座って、ご飯茶碗を持っている。この子はだんだんゲンゴに似てくる。いけないことだ。この子だけはあんなバカたちに感化されてはいけない。私の様になってしまう。
「雨先輩、何かあったんですか」
「ゲンゴのバカになにか言われたんでしょう」
 私が海老と卵の炒め物を箸でつまみながら訊くと、むいちゃんはあっさり首を縦に振った。こくんと。
「雨がなんか抱えてるから、お前ちょっと話聞いて来いよ、おんな同士のほうが話しやすいだろうって。ゲンゴ先輩が」
「ふうん、ゲンゴ先輩って呼んでるんだ」
「いえ…普段は違いますけど、雨先輩がいるから…」
 かわいい後輩はかわいく言葉を濁した。
「あら。なになに。普段はなんなの? 呼び捨てにしてるの? ゲンゴって呼んでるの? それともゲンちゃんとか?」
「もう、私のことはいいんですよ」
 と言ってむいちゃんはお茶椀の中身をぱくぱく食べ始めた。
「むいちゃん、ゲンゴとはどうだった?」
 と訊いたら、一瞬目を見開いて、懸命に咀嚼してから、
「雨先輩、げせわです!」
 とちょっと本気で怒った。私は
「ごめんごめん。真に受けないでね。いいじゃない。ちょっとからかっただけで腹立ててたらこの先やってけないわよ」
 と言った。むいちゃんは素直な子なので、ごめんなさい、と言う。本当に、ゲンゴみたいなすっとぼけた奴にはもったいないいい子だ。
「でも、正直に言ってどうなのよ。ゲンゴが私と二人きりで会ってたこと知っているんでしょう。いやじゃないの」
「なんでですか?」
 むいちゃんは本当に素直な声で聞き返した。
「ちっともいやじゃないですよ。先輩たち友達なんだから」
「それが友達じゃないかもしれないわよ」
「じゃ雨先輩のいやがらせでしょう。そんなことが分からないゲンゴ先輩じゃないですよ」
 このこは本当にゲンゴに似てきてしまった。
「じゃあゲンゴのことは信用しているの。私と何かあってもかくしているかもしれないわよ」
「うーん。雨先輩がそんな事言う時点で、すでに何もなかったってことでしょう。そもそも信用も何もないと思うんです」
 私はその信じる心の美しさに、冗談じゃなく涙が出そうになってしまう。小さな女の子なんだから。
「じゃあ私以外の女だったら? 私だったら冗談半分の嫌がらせだと思えるでしょうけど、他の女だったら、やっぱりゲンゴを信用していられる?」
「私はそもそも浮気がいやっていうのが分からないんです」
 大胆なことを言う。

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