“好きか嫌いか”は言葉の問題。
今、まさに始めて会う人たちに対する諸事情あって避けられない接待から帰ってきたところです。
疲れました。気を使ったこともなんですが、あちこち移動したこととか料理のしたくをしたこととか、たちっぱなしの時間が長かったせいか、とにかく疲れました。
でも、体力的に疲れるのは当たり前として自分の中で不思議なのは、とても感じのいい人たち(今この世界を生き抜く中で感じがいいということは人生の宝みたいなものです)だったのに、まったく好きになれなかったことです。
「何故私は人を嫌いになるのか」考察5回目になります。今回は「嫌いになる」と言うよりは「好きにならない」という話題になります。
私はその感じのいい人たちを好きにならなかった。これは何故なんだろうか。
私は言葉が好きです。できれば、言葉を交換の道具にするのが好きです。(やがて、言語経済というものが現れる時代が来て、いかに魅力的な言葉を持っているかが人の生き死にを左右するようになるのかもしれない、と思ったりする)
だから魅力的な言語を発してくれる人のことを好きになります。私が好きになった人はみんな言語的に魅力的な人ばかりです。
と、なると今回の答えはひとつですね。
私は今日会った感じのいい人たちの言語に魅力をちっとも感じなかった。
そういう結論になります。感じはいいのです。でも、私はその人たちと充実して言葉を交わすことができなかった。つまらないのです、言語が。独自性がないのです、言語に。交換の面白さは自分にない他者の独自性に触れることだとおもうのですが、(その人たちに独自性がないと言うわけじゃないんです)その人たちが持っている言語に触れて私は何の新鮮さも感じなかったし、強いて自分の中のなにかを取り出して相手に与えようと思わなかった。
人間関係は何かを交換しあうことで発生します。一番顕著なものが言語です。
私が人を嫌いになるとき、その人と言語を交換したいと思わない。自分に得るところがないし、むしろ搾り取られていくだけだから。
今日は搾り取られたわけではないですが、でも、なんにも得ることはなかった。だから、私はその人たちをやがて嫌いになるでしょう。損を被ったから。
好きか嫌いかは言語の問題。というお話。
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