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森と雨 8

「髪、自分で染めたの」
「話反らすなよ。じゃあいいよ。ゲンゴの方がいいんだったらゲンゴと付き合えばいいだろう」
「バカがバカなこと言ってると、バカにしか見えないわよ」
「俺は雨がいつまでも幸せから逃げてるのがいやなんだ」
 レアンが立ち上がってこっちに来るので、私はとっさに鍵だけ持って部屋から逃げ出そうとした。でもレアンは私の髪を掴んで、それから肩を掴んだので私はもう一度レアンに抱きしめられて、今度はトイレのドアに押し付けられたので完全に身動きできなくなった。
「最低な引きとめ方ね。今時小学生でもしないわよ、髪の毛引っ張るなんて」
 もう一回、力付くで逃げられないかと思ってレアンを押し返そうとしたんだけど、今は両腕を包み込まれてしまったので、抵抗することが出来なかった。
「分かったわよ、もう。したいことすれば。あんたが帰ったあとで警察行くけど」
「俺と一緒にいたら幸せになれるよ。だからいやなんだろう。だから、俺は雨と一緒にいたらいけないんだろう」
 ああ、レアンとこの話を何度しただろうか。何度繰り返しても、レアンは納得してくれない。そして、納得するまで私は話し続けよう、と思う。
「そうよ。私は幸せになりたくないの。私はあなたのことが好き。だから、一緒にいたら幸せになってしまうでしょう。だからいやなの。納得出来たら帰ってちょうだい」
「いつまであんな兄貴のことなんて引きずってるんだ。嘘だよ、ゲンゴには何も話してないんだろ。分かるよ、俺、その位、雨のこと。くそったれな兄貴の事なんてもう忘れちまえよ。そいつはそいつの人生を生きて、でも雨の人生とは関係ないじゃないか。なんでそんなにくそ兄貴のことが大事なんだよ」
「あんたの知ったこっちゃないわ。だから兄の話はもうしないで」
「俺に話したのは雨のほうだろう。誰にも知られたくないんだったら、俺みたいなチャラ男には話さないんだよ。雨。お前もいい加減自覚しろ。お前は兄貴から解放されなくちゃだめだ。自分で分かってるはずだ」
 レアンの口から兄の名前が出る度に、私は背中がつうと痛くなった。目を閉じてそれに耐える。
「私が何を分かっているかなんて、レアンに決められたくない」
「どうしてそんなに、きょうだいのことが大事なんだ」
 観念してレアンは私を離すと、両手で髪の毛を分けて私のこめかみを抑える。
「今日は一緒にいてもいいか。本当につかれてるんだよ。俺は何もしないよ。わかるだろう」
 こういうときのレアンは哀しくなるくらい真剣で、はっきりとした目は行儀よく私だけをとらえている。こんな顔は私以外の誰にも見せたことはない。確証はない。でも分かる。私はその位、レアンのことを分かっている。絶対に。
「そうね」
 そう、レアンは私に何もしない。私は、レアンに何かされたことなんて一度もない。何もしないで、と言ったら、レアンは、はい、と言ったのだ。

 その夜はレアンの隣でまた夢を見た。明かりの薄く差し込む森の中で、私は先を急いでいる。この先で私を待っている人がいる。早く行かなくては。
 待ち合わせは毎回初めてだった。私はその人と初めて会うのだ。だから行かないと。私は木の根を踏みしめて、コケを踏みしだいて、木葉を踏み潰して、先を急ぐ。
 でも森の中は足場がものすごく悪く、前へ前へ進むのは困難だった。私は軽く汗をかき、やがて出てきた霧に冷やされながら、それでも森の奥へと向かっていった。早くしないと待ち合わせの時間に遅れてしまう。だんだん焦って、必死で私は落ち葉を踏み分けていく。でも、やっぱり間に合わなかった。
 待ち合わせ場所の木の根もとには、待ち合わせていたその人の気配だけが充満していて、でも姿がない。私は哀しくなって、その人の名前を呼ぼうとして目が覚めた。
 部屋の中はうす明るかった。顔のすぐ近くにレアンの顔があって、赤ちゃんみたいに規則正しい息をついて眠っていた。レアンはいつもこんな風に安心しきった顔で眠る。他の女の所でもそうだろうか。と考えていたら、私は夢の中で誰の名前を呼ぼうとしていたのか、忘れてしまった。待っている人には見当がついている。でも、私は本当にその人の名前を呼ぼうとしたのだろうか?

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