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好きなものの話その2【仕事】

仕事は好きです。正確に言うと今いただいている仕事は好きです。さらに詳細に言うと作業に没頭してほかの事が目に映らなくなった状態の自分が好きです(それはちょっとどうだろうか、というお言葉もあるでしょうが、でも)。

その昔会社員時代、再就職先としてその会社を探していたとき、不況も不況でハローワークは連日長蛇の列でした。

「えり好みなんかしてられない」

と思って営業の仕事に就いたのですが、あれは本当に辛かったですね…。営業は才能だと思います。才能と言うのは要領かもしれないし、割り切り科も知れないし、精神のタフネスかもしれませんが、私はそのどれもなかった。

前にも書いたのですが、そのときの仕事は本当に辛くて、私は毎日毎日出勤前に夫に仕事に行きたくないと言ってないて駄々をこねてさんざんぐずって
(ちなみに夫は夜勤の仕事をしていたので、私が出勤する時間が就寝する時間でもあったのですが)、で、やっとなだめてもらってそれでも泣きながら車を運転していって駐車場で化粧しなおして
(斜陽の主人公のお詫び行脚みたいだ)
やっとのことで出勤していたのでした。

紆余曲折を経て文章を書く仕事をいただいて、この業種がとても好きだと思います。

今メインで請け負っているのは、取引先からテーマをもらってそれに沿った内容の記事を提案して折り合いがつけば記事にする、と言ったスタイルなのですが(そして薄給ではありますが)、一連の作業が自分の脳波にぴったりマッチしているので快適です。

特に体調がよくて集中力が高まっていて頭と手の動きが完全に連動している瞬間は

シードがはじけたあとのキラ・ヤマトがストライク・フリーダムで雑魚をロックオンして一網打尽にするとき(分かる人には分かる)


見たいに脳内を言葉と文章が飛び回ります。この状態が完全に好きです。

ですが、それ以外にも今日買い物をしながら思ったことがあります。私は障害者手帳の2級を持っているので、仕事のほかにも年金をもらってどうにか生活できているのが現状です。

だから自力で生きているわけではないのですね。

これは非常なコンプレックスです。

仕事ができない。自力で食い扶持が稼げない。人に生かされないと生きていけない。コンプレックスです。同じ障害を持っている方も、案外同じ気持ちでいるみたいで、なんとなく、世の中に対する後ろめたさと言うか情けなさ、日向を歩けない気持ちで長い間いました。

話が変わりますが大学院を卒業して最初に就いた職場は、児童デイサービス(今は放課後等デイサービスという名称なのだそうです)でした。

そこには四肢麻痺や知的障害や聴覚障害、内臓疾患など様々な病態を持った小学生から高校生までの利用者たちが集まってきていました。

病態もそれぞれですから、知能の度合いもそれぞれで、足し算までは分かるけど引き算は無理、とか、漢字は書けるけど書き順は理解できない、とか、言葉は一切話せなくて手を繋いであげなくては歩けないとか、まったく理由は分からないのですが定期的に手近な人に襲い掛かるとか、0歳のまま時間の止まっている人とか、本当にいろんな人たちでした。

私は、まだ24の若輩でしたので、そんな彼らにご飯を食べさせたりひらがなを書かせたりすることが、

動物に芸を教えるのと何が違うのか

と、語弊を恐れることなく、思っていました。できないならできないでよろしい、これは人間の真似をさせているだけじゃないか。彼らは彼らの生き方があるんだろ、それもできないんなら、家から出なければいい。そんな風に思っていました。


でも、最近、やっとのことで自分の仕事も軌道に乗り出して、年金に頼らなくても生活費に余剰が出るくらいにまでなってきました。

だから感じたのです。

仕事は、自己肯定感を得るために必要なんだ

仕事ができる。お金がもらえる、そう思うと、自分が生きていてもいい人間のように思えてくるんです。自分の力でお金をもらえると言うのは、その力を持っていない人間にとって大きな達成感になるのです。

だからあのこたちにも仕事は必要だった、きっと、本当は。生まれてしまった以上自分を肯定しなくてはそれは生き辛い上にも生き難い。

だから私は仕事が好きです。

自分の脳をフル回転させていられる瞬間が好きです。ささやかでも、それが、どんなにささやかな業務だったとしても、私の好きなことなのです。


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