見出し画像

雨の国、王妃の不倫 12

“私はたいせつにたいせつに閉じ込められていたのです”

と榮妃は言った。
“私は妃の身位でしたからね。それはたいせつに閉じ込められていたのですよ。”
誰に?と私は榮妃に聞いてみたかった。外は石が落ちてくるようなどしゃぶりだ。こんな夜に直井くんはまた公園の遊具の下で、ただ、しのいでいるのだろうか。

先生は直井くんを助けてくれないと言った。そして私も助からないと言った。そして榮妃は、たったひとりで、助からなかった。
貴方を閉じ込めていたのは誰? 貴方はそれで良かったの? 貴方はそれでしあわせだったの?一体誰が貴方をたいせつにしたというの?貴方はあなたの一生の中で誰にたいせつにされたというの。
“ええ、わたしは一生涯誰にもたいせつにされなかったわ。そんな謂れはないのです。わたしはただ居ればいいというだけの存在ですからね。わたしは生涯をたいせつに閉じ込められて生きていました。
そうする以外にしようがなかったのです。
わたしはわたしのこころ一つの外に出たことがありません。わたしのみひとつにそなわったこころだけがわたしのものだったのです。
そこだけが、私が生涯入っていた牢だったのです。わたしは満足です。だからこそ自分がおもっていたような逝き方を遂げることができましたからね。わたしにはわたしのこころひとつ以外にひつようなものなど無かったのです。貴方は如何ですか。貴方は何を持っていてこれ以上何をのぞんでいるのですか”

「消えたい。」
私は先生にも言った、直井くんも同じように考えている。夫には言えない。でもあの人にはもっと言えない。
「私は消え去りたい。」
貴方の様に。
みひとつに宿ったこの魂と一緒に消えてなくなってしまいたい。それ以外に私が此処から外に出ていく方法なんて思いつかないもの。
「私は私の心以外のものに閉じ込められている。」
私は呟いた。貴方とは違うのだ。私はでていくことが出来ない。貴方とは違う。自分の意志で出て行かなかった貴方とは違う。そしてそれに満足している貴方とも猶違う。わたしはたいせつにとじこめられている。そして此処から出ていこうとも思わない。わたしは自分を最低な人間だと思っている。自分の心に従うことも出来ない。だれかのために生きることも出来ない。
ただわたしは牢に入っている。雨が私を閉じ込めている。でも雨は私の上には降ってこない。わたしは雨に降られないようにたいせつにたいせつに守られている。
なのにわたしは其処から出ようとしている。そしてわたしは其処に留まろうとしている。

意志も意図も関係ない。私は惰性に飲まれて今もこうして何もかもを雨のせいにしている。直井くんのことを案じながら。私には行きたい所がない。しかしここにとどまっていることも出来ない、私はどこにも腰を落ち着かせることが出来ない。
私の思考の中にあの人が居てしまう。だからあなたとはもう一緒にいられない、
そう言ったのに、夫はただ笑っているだけだった。

「先生友達を探してください。」
「嫌です。」
とすげなく言われた。
「人を警察犬か何かみたいにかんがえないでね。私の仕事はインフラ整備。人の道行きの整理整頓をすることなのよ。言ったでしょう。居なくなった人間を探すんなら他当たってちょうだい。そして今週のスケジューリング管理、間違えないでちょうだいね。この間みたいに。」
直井くんが居なくなったパニックは続いていた。私はあっちでもこっちでも下らないミスを連発していた。
「でも先生、その友達は私にとって必要な友達なんです。」
私は食い下がるのだ。私が水かえを怠っているから先生の机の上の切り花は萎れて嫌な匂いがするようになっているけど、先生はそれについて特に注意を払わない。
花の水かえをしないことは道行きのインフラ整備と比べて非常に些細な事なのかもしれない。
「私の運命の敷石のひとつなんです。今それがかけ落ちてしまいそうなんですよ。私の道行きが変わってしまうじゃないですか。なんとか直したくださいよ。」
と私は言った。
「欠けた穴は他の敷石で埋めれるようになっているわ。あなたの道がそんなように出来ているのよ。」
良かったじゃない、先生はタバコの烟みたいな雨が降っている窓のこちら側で私を振り替えっていうのだ。
「あなたの道はそういうふうになっているの。ここで大きく並びが変わってしまっても、特に問題ないように、同じ所に着くように出来ているの。
だから私が何か手だしをすると言うのは、間違っているというより、無意味な事よ。」
それよりコーヒー買ってきてくれない? カフェインレスのやつ。と先生は言う。
「加えて言うけどね。」
私は外出するためにカバンの中身を探っていたのだが、
「なんですか?」
「あなたの道行きが絶対に変化しない理由ははっきりしてるの。」
私は背筋がざわざわ波立つのを感じた。錆びたチェーンが服の中をたくさん通りすぎていくみたい。
「あなた過去を棄てる勇気なんてないじゃない。そんな人間がどうやって運命を変えたり幸せになれるって言うのよ。」
鎖で背中を殴られる衝撃。

「…コーヒー買いに出てきます。」
辛うじて口がそう動いた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?