嫌悪。能動態と受動態のはざまで。
「私は何故人を嫌いになるのか」
についての考察3日目に入りました。昨日は
「人を嫌いになるのも生きていることの表現」というような記事になったのですが
そのときは「ああそうか」と自分に納得していたのですが、今になって「それでいいのかな」と思ってしまったので、やはりもう一度考えてみようと思いました。
嫌われるのは仕方がない。それは、思考や志向のぶつかり合いだから、性格は人間ひとりにいっこ必ずはいっているものだから、で、悪いことにかなり付き合ってみないと正体がしれないものだから、やがてぶつかり合うのは仕方がない。これは受動態の嫌悪感ですね。
では、
嫌いになる
ことに本当に罪はないだろうか。それは本当に私、森本湧水という人間の、生命の表現の一端なのだろうか。
そう、
人を嫌うと言うことで私は自分を表現しているのだろうか
さらに言うと
こんな人間が嫌いだ。そういう文章で、自分がクレジットされてしまってもいいのだろうか。自分のPR文の中に、私は自分がどんな人間を嫌いなのか堂々と書けるのだろうか。
迷っているのは、能動的な嫌悪感とはつまりわがままのことではないのかと思うからです。能動的な嫌悪感をあなたが持っているとします。ピーマンとにんじんをサラダにした奴が嫌いだとか、若い女の子が前髪を横向きに分けているのが嫌いだとか、店に客に来るなにがしさんの吸っているタバコの臭いが嫌いだとか(臭いは人の体臭と混ざって独自臭になるので、同じ銘柄でも人によって嫌悪感は違う)、ナスの入ったカレーが嫌いだとか、彼氏がごつい時計をつけているのが嫌いだとか、隣の席に座っているなにがしちゃんが授業中無意識につばをじゅっじゅっと鳴らすのがきらいだとか、そういうことをあなたが持っていると考えてください。
それを自分のプロフィールに書けますか。
おそらく、書かないでしょう、それは、書くことで読んだ人が不愉快になると言うことを考慮して書かないのでしょう。つまり、読んでもらう人に対してあなたが好意、ないしそれに近いものを持っているということでしょう。
嫌悪感は人と共有したくない、好きな人ならなおさら。たまに、好きな人だからこそ能動的な嫌悪を受け入れてほしい状況もあるけれど。
でも私は、能動的な嫌悪感はやはりわがままに通じるのではないかと思ってしまいます。
私が夫の親を嫌いなことも、だから私のわがままなんじゃないかと思うのです。だからいっそ「わがままです」と断罪されたほうがいい。
ぶつかり合うことと嫌うことは違う。やっぱり嫌悪感は生命の表現ではない。
だって、軽蔑している人間と肩を並べたいと思いますか?
ぶつかり合うと言うのは両者が対等だからこそおこりえるものなのですから。
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