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そろそろ未来の話をしようか

見終わってからしばらく経ってしまったけど、日本発のNetflixオリジナルドラマを配信開始から割とすぐに見終わったのでレビューではなく単なる脳内整理メモとして書いておこうかと思う。

 

Netflixオリジナルドラマ「極悪女王」




配信開始になる半年以上前から撮影時の安全管理の問題や、俳優にデ・ニーロ・メソッド(役柄に合わせて体重の増減、髪や歯の増減まで調整する役作り)を求める制作の姿勢に批判が集まった「極悪女王」の配信が開始された。制作に問題がある作品は積極的に見たいというモチベーションが上がらないものの、長与千種役の唐田えりかさんのお芝居がとても評判が良かったのと、剛力彩芽さんがなぜこの作品に出たのか、どんなお芝居をしているのか興味が湧いたので見ることにした。

 第一話でとにかく俳優陣のお芝居がことごとく素晴らしいため、全話走破してしまったわけだが、全話見終わった時の感想を、どうするべきなのか私は一瞬迷ってしまった。全話通して俳優たちのお芝居は素晴らしい。実在の人物を演じる中、それがモノマネにならず、1980年代にまだ生まれてなかったであろう俳優たちも時代の空気感をきちんと表現できていた。

プロレスの試合や練習のシーンも見どころとなっているがそれがとてもリアルに仕上がっていたのも、俳優たちがレスリングや空手などの格闘技も含めて、年単位で習得に取り組んだ結果だろう。日々の鍛錬の積み重ねの上に繰り広げられる、たくさんのテイク。しかしそれはリハーサルから本番まで何度となく繰り返された無数の芝居の積み重ねの先の、たったひとつのOKテイクの繋がりなのだ。もうその成果を見るだけでも、その芝居は価値あるものと言える。

そしてハイライトである試合のシーンに必要不可欠な、熱狂する観客の体温が伝わる映像を見せてくれた白石和彌総監督はやはり期待を裏切らない監督だと思う。

 では「極悪女王」は世界各国から発信されているNetflixオリジナルドラマの中で、世界の様々な作品と肩を並べても遜色なく、世界に知られるべき作品と言えるか?という点で考えると、それは申し訳ないが全くそんなことはないなと思ってしまうのである。

それにしても昭和、よりによってバブル時代

Netflix制作のドラマは日本だけでなく世界各国で制作されている。映画、ドラマどちらも配信に押され気味の世の中だがその中でもNetflixの独走に近い現状、制作費も潤沢に出ると言われている。実際、韓国制作のNetflixドラマを見ても、欧州、中東、アフリカ制作のNetflixドラマを見てもそれは感じる。日本制作のドラマでも制作費ガッツリかけて作ってるなと感じる場面は多いが、せっかくの潤沢な制作費をどう使うかとなると、韓国はSFに使い、日本は昭和に使ってるのである。




これらの作品も昭和が舞台、よりによって全部、バブル時代の実在の人物がモデルになっている。そんなのを量産するのはどういうことか。

「日本が元気だった頃」という手垢のついた言葉

ちょうどバブル時代から40年、当時現役世代でいちばん、バリバリ働いてバブルの旨味を吸い尽くしていた世代が高齢者となった時代が今だ。高齢者にありがちな思い出補正の常套句として「日本がまだ元気だった時代」というのがある。確かに今は明らかに衰退国となってしまい、子供の数は減り、高齢者の数ばっかり増えて、所得は上がらず、上がった所得は社会保障費にむしり取られるこんな世の中だとバブル時代みたいに馬鹿になって浪費するなんてことは庶民にはもう出来ない。何にも考えなくても来年も再来年も所得が上がる時代じゃないんだから、元気なわけがない。元気を吸い取ってる世代から元気がないとダメ出しされる、それが現代ではある。しかしその「元気だった時代」の方がストーリー性があるのか?というと、それは違う気がする。いつの時代にも、その次代特有のストーリーは存在するし、それは今もこれからもそうだと思う。

その時代の景色を見せてくれるということ

しかしよりによってバブル時代のストーリーをドラマ化する、これはファッションや髪型、化粧が今の時代とは違うトレンドというだけでなく風景(セット)や持ち道具に至るまで、そう簡単な話ではない。今の若い世代からしたら多分、これらのドラマに出てくるものはすべて、見たことのない未知との遭遇なんだろうなと思うくらい、当時の景色をきちんと再現している、それは相当の労力と予算がかかっている。映画「DUNE」や「マッド・マックス怒りのデスロード」を制作するのに等しいくらい、「今の時代ではない別世界」を再現しているのである。普通の民放の連続ドラマじゃ出来ないスケール感ではあると感心する部分ではあった。

未知との遭遇

知らない景色を見せてくれる、知らないものを見せてくれる未知との遭遇は映像作品を見る醍醐味のひとつで、そういう意味では私達世代からすると「見たことある景色」であっても若い世代からしたらそれらバブル時代に連れて行かれる作品というのは「見たことのないもの」「未知との遭遇」であるのは確かなのだが、どうせ「未知との遭遇」で驚きと感動を生み出すのであれば、一定の世代が見て、体験した、記憶に頼れる「過去」ではなく、想像力で勝負する「未来」だとか「過去でも現在でも未来でもない異次元のSFの世界」で感動させてくれないだろうかと思う。作り手が想像する世界、それが無限に広がっていく中、多くの人たちとそれを共有するべく具現化していく。それこそがクリエイターの才能の発揮しどころなのではないか。異次元でも未来でもいい、誰も知らない、ゼロから生み出したものを共有されたい。漫画や小説など原作の作品ありきでドラマや映画が制作されるのが当たり前になった昨今、予算が十分にある配信ドラマだからこそ、ゼロからオリジナルを作れるのに、そこでまた原作(実在のモデルがいて過去に起こった出来事をドラマ化)ありきの制作を繰り返していたら視聴者の目も肥えていかないし、作り手側の成長も阻まれてしまう。あらゆる面で衰退国になった日本でエンタメまで衰退していくのは、作り手側の意識の持ち方で阻んでいくのは可能なはずだ。私達はそろそろ未来の話がしたい。

今日のパンが食べられます。