中甸地図_2_

私とちゅんま(第一部・出会い編)

【要点】
・雲南省は良かった
・オッサンの昔話

 私とちゅんまの関わりを綴るシリーズ「私とちゅんま」。第1部は出会い編である。

※この文章に出てくる「ちゅんま」とは、中国マージャン(国際公式ルール)のことです。

◆2001年8月 中国の田舎でちゅんまを打つ

 中国の南西・雲南省の北方、中甸(ちゅうでん)という田舎の町が、私のちゅんまデビューの場所だった。手元の記録によれば、2001年の8月4日。日本から20人、地元の人が20人くらい参加して、交流麻雀大会をしたと思う。会場はきちんと専用卓が置かれ区切られていたので、麻雀店だったはずだが、今では全く分からない。

旅程表2001-08(1)

(注)旅程表の4日目の午後に「日中友好健康麻将中甸交流会」がある。日中友好協会の、7回目の健康麻将交流旅行だったらしい。

 麻雀の内容は覚えていない。初の実戦で、役もろくに覚えてなかった。しかし地元の人も不慣れに見えたから、勝負としては釣り合って面白かったかもしれない。
 大会は、一緒の部屋だった同僚が十三幺(88点)をアガって優勝した。日本では国士無双と呼ばれる役満だ。「役満は日本も中国もさほど変わらないから、そこが狙い目」と彼は事前に言っていて、言葉通り優勝した。さすがだな、と思った。

中甸ルール表

(注)事前に勉強したテキスト。練習は1回したかどうか。88点が最高点、いわゆる「役満」。

 私とちゅんまを強く結びつけたのはこの2001年の体験ではなく、その次、2005年の成都での体験である。地元の人との交流大会(それなりに真剣)で3位に入ったことで、私とサークルの仲間達のちゅんま熱は沸騰する。翌年には名古屋まで遠征して、150人規模のちゅんまの団体戦に参加するほどだった。
 しかし、雲南省を北から南に旅した7日間がなければ、私は中国語を勉強することもなかったし、中国や海外の麻雀ニュースを紹介するブログを立ち上げることもなかった。19年経って思い返すと、人生で忘れがたい体験である。

 「私とちゅんま(第一部・出会い編)」は以上。あとはオッサンの昔話なので、時間のある方はお付き合いいただければ。

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◆他の方の旅行記をご覧ください

 この旅行については、他の参加者の方の旅行記がネット上にある。東京の朝日塾、という健康麻将教室のサイト内だ。

 よく見ると、私も2枚ほど写真に映っている。
 塾長のAさんは中国語が堪能で、水タバコを嗜んでいらっしゃった。1年半前にツイッターのフォロイーさんのつぶやきでお見かけしたが、ご健在のようで嬉しかった。

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◆2001年のちゅんま?

 資料を探っていたら、2001年7月の新聞記事コピーが出てきた。大隈秀夫さんという、麻雀博物館(1999年開館)の初代館長が書いたものだ。

西日本新聞2001-07-6(1)

 「ちゅんま」の正式名称は「中国麻将競賽規則」(Chinese Mahjong Competition Rule、MCR)という。1998年ないし99年に、中国の国家体育総局が麻雀を体育種目として認定した際のルールだ。2001年時点ではまだ2年程度の歴史しかない。
 記事によれば、2001年の6月に中国の寧波(にんぽー)という港町で「寧波市長杯」という麻雀の団体戦が開かれたという。文脈から推測する限り、採用ルールは2000年の秋に「日中の専門家が協議して制定した世界統一ルール」らしく、ちゅんまではないのかもしれない。
 ただ私の記憶では、日中友好健康麻将の旅行は、私が行った雲南省が第7回で、その前の第6回は寧波だったはずだ。2001年6月と8月、わずか2ヶ月弱の間で異なるルールを打つことはあるのだろうか。当時を知る人が見つかれば聞いてみたい。

(上記リンク) 人民網 2001年6月20日付の記事。6月17日に寧波の「麻将起源地陳列館」がオープンし、日本健康麻雀交流訪華団の人たちが式に参加したことを報じる。大隈の記事の「陳魚門記念館」に同じ。

 いずれにせよ、当時日本でちゅんまを知る人はごく一部だったと思う。私もそれまで、全く聞いたことがなかった。

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◆2001年の私

 そもそも何故私が旅行に参加したかといえば、当時勤めていた麻雀店チェーンが健康麻将の活動に関わりがあり、当時本部で一番暇そうだった私にお鉢が回ってきたからだ。多分、恐らく、何となくそうじゃないかな、と思う、よく知らないけど。
 よく知らないのには理由がある。私はつい3ヶ月ほど前に本部に連れてこられたばかりであり、その前は店舗(フリー麻雀店)で従業員(メンバー)をしていたのだ。本部の事情など分かるはずもない。
 忘れもしない2001年4月の晴れた日の朝、私は半通しと言われたのに全通しになってヘロヘロなところを、店長からいきなり「着替えて本部に行け」と命じられた。行ってみたら1、2回しか見たことない強面の社長から「お前今日から本部な」と言われて、わけも分からない内にその日付で異動となったのだ。ちなみに店の寮にあった荷物は人が持ってきてくれた。 
 ※半通し:18時間勤務。※全通し:24時間勤務。大人には色々ある。

 その頃私は、店の同僚に給料(13万くらい)を盗まれて、気分は最悪だった。奴はフィリピンパブに通い詰めて、20も年下のホステスを「ママ」と呼ぶファッキン野郎だった。あと、本部に異動になった日は本来休みで、夜にセフレ(体だけの関係を持つ、後腐れのない付き合いの女性)と会う約束をしていた。何とか本部の寮を抜け出して外泊したら、その後しばらく「こいつは性格が暗くて曲がってるからな。初日から抜け出すような奴だ」などと社長にからかわれ、心の中でファッキンと毒づいていた。まあ外泊ファッキンは満足したので、それだけが救いであった。

 ………話がそれた。この辺りは、もし聞かれたら話すのでお気軽に。

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◆中甸(シャングリラ)の思い出

雲南北部地図

(注)ホテルパンフレットの雲南省北部地図。真ん中が中甸。インターネット?何それ美味いの?という時代&場所で、これがほぼ唯一の手がかりだった。

 私が初めてちゅんまを打った町・中甸(ちゅうでん)は海抜 3,400mの地にある。移動中の車内からはるか遠くに、梅里雪山の6,000m超の峰々が見えた。郊外には雲南最大のチベット仏教寺院があり、マニ車を回しまくり、昔ダライ・ラマ(5世?)の修行した部屋とやらをホへーと観覧した。更に郊外には納帕海(ナパ海)という名の草原があり、山に囲まれた湿原のそこかしこに池塘が見えた。私は『海行かば』という軍歌を口ずさんだ。もしここで死んだら「水漬く屍+草生す屍」になって両得だよな、と思いながら。

 私が行ってから数年後、中甸県は「シャングリラ県(香格里拉県)」と名前を変えた。シャングリラは小説に登場する理想郷のことだ。途方もなく浮世離れした、夢のような場所だったのは間違いない。

 何故そんな辺地まで行ったかといえば、健康麻将協会の寄附により設立された、村の小学校の開校式典に参加するためだった。中甸の町からサスペンションのないマイクロバスに乗って3時間半の村。確か羊場村と言った。村の子供たちの表情を今でもありありと思い起こすことができるが、技術の進歩は恐ろしいもので、場所はネットでも確認できる。

(注)寄附により建てられた小学校は「希望小学(校)」と呼ばれる。日本健康麻雀の頭を取って「日・健・麻 希望小学」という名前。シャングリラ空港から車で2時間17分、90キロ、途中の信号は11基。そんなことまで分かる時代だ。

 ついでに中甸の町中も見てみたら、ストリートビューがある。泊まったホテルの写真もあった。道は舗装されているが、当時は土だった気がする。

中甸ホテル

中甸ホテル(1)

(注)現在のシャングリラ市内のホテル(ストリートビュー)と、2001年当時のパンフレットの写真。お湯はまともに出ず、水は黄色く濁っていた。

 中甸から南へ、白水台、麗江古城、麗江から大理へのバスで見た一面のヒマワリ畑。洱海と聖福寺三塔、昆明、滇池。語りだすと雲南はキリがないので、この辺にしておこう。

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◆オッサンの寝言

 上に書いたように、2001年のちゅんま体験自体は、私の中に強く刻まれたわけではない。しかし改めて思い返すと、19年前から遊び続けているちゅんまの淵源は、中甸の名前も場所も分からない麻将館にある。人生で再びあの場所に行く機会はないだろう、遠くに来たのだと、若干の感傷が胸をつかのま浸す。そのつかのまの外に、人生がある。


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