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次の部屋 修行編 Ⅱ


 夢を視ることなく、朝までひたすら深い眠りの底にいた。しかしそれは一瞬の微睡みにも似た感覚が身体に残っていて・・・身体はおぼつかないが、意識は明晰に戻りつつあった。
翁が身体を揺すって「そろそろ起きようか」 と声をかけて頂いたので、さらに意識がはっきりと戻った。「はい、お陰様でよく眠れました」「うん、それはなによりだ。朝餉を作ってある。外で食べよう」と庵を出た。切り株の前にはまた、護摩壇焚き火の炎が土鍋を包んで茶を沸かしていた。
朝餉は、木皿にのった麦ご飯のおにぎり、干した川魚の焼き物と梅干しだった。
「頂きます」と手を合わせて朝餉を食べ始めた。一つ一つがほんとうに美味しかった。この翁は極上の生き方をしていると・・・改めて微笑みを絶やさぬ翁の顔をしげしげと視つめてしまった。
「何か?言いたげだな?」
「いえ、ごちそうさまでした。ほんとうに美味しかったです。ありがと
  うございます」
「そうか、それはなによりだ・・・さて、昨日の返事を聞こうか」
「はい、お請けしたく存じます・・・いいえ、是非にもやらせて頂きた
 いです」
「そうか、よく決心をなされた。儂も大変嬉しい」僕は此処に居て、初
 めて笑顔になり、声を出して笑った。
「さて、その為にはお主に覚えて欲しいことが幾つかある。そうさな、
 一週間ほど茶葉のこと・茶湯を学ぼう・・・いいな」
「はい、宜しくお願いします」

 それからの一週間は、ほんとうに修練だった。全て暗記しなければならなかったし、お茶の入れ方も独特であったので何度もダメ出しが出て濃い日々を送ることになった。
明日が出で立ちの夜、翁が松の木の寝床から降りて来て、「少し山を歩こう」と誘われた。その日は満月で月の光が、夜道を照らし出していて山道ながら歩きやすかった。
「何処へ行くのですか?」「すぐにわかる」登り道を一時ほど歩くと見晴らしのよい場所に出た。そこからは、大きな湖が視えた。 「あの湖がわかるか?」「はい、琵琶湖ですね・・・とすれば此処は伊吹山もしくは蓬莱山ですか?」「伊吹山じゃ、湖の反対側に住んでおるので何処か分かりづらかっただろう」「いいえ、山のことだけを感じられていたほうが良かったです」「お主はまさしく、下界に降りることになるなぁ・・・」

 そして晴れ渡った翌日、「今日は旅立ちに良い日だ。行きなさい」と翁は言い切った。
やっとお許しが出たかと思いほっともしたが・・・これからのことは全く想像がつかなかった。
翁は、茶道具及び茶熾し一式を運ぶ笈(おい)と笈摺り(おいずり)を用意してくれていた。だが、首を傾げて・・・「やはり、頭を剃るしかないのぅ」「はい、剃って頂ければありがたいです」と応えた。

行脚(あんぎゃ)僧のような出で立ちとなり、菅笠を被って翁に深々と挨拶をした。
「うん、よく似合っておる。この道を下って、ひたすら南を目指して歩けば、琵琶湖に面した町に辿り着く。そこでは市が立って人々が集まる。なるべく外れの方に構えて、茶の湯の場所を確保しなさい。
又寝るときは少し山辺を歩けばお寺が何カ所かあるから、その縁の下で休みなさい。」と細かく指示を頂けた。ほんとうに感謝である。
<あてどのない旅だが旅が生きる術のすべてだとしたら、生ききるしかない>と密かに決心し、銅のドアノブを松の木の下に埋めて庵を後にした。                           Ⅲに続く

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