違和感の正体と向き合う。「仕事」も「育児」も両方やりたいってどういうことなんだろう。全力でそうなんだけど何かが違う。

結論が出ないままこの記事を書き始めています。
書きながら考えてみる。

最近よく聞く
「仕事」も「育児」も両方欲張る、とか両方諦めない
みたいなワーママキャッチフレーズに
微妙な違和感があるのはなんなんだろうとずっとずっと考えています。

もちろん、異論はありません。
でもなんだか少しニュアンスが違う。

欲張ったり、諦めなかったり
自分の意思を強烈に持たないと実現できない暮らしに思えます。
2つやるのは本当に大変です。

今うっすら感じているのは「2つの役割」を「2つとも」手に入れるという発想に違和感があるのかもということです。

わたしは、たくさんの役割が欲しいわけじゃない。
母の顔と、仕事の顔と、両方が欲しいわけじゃないんです。

わたしは、わたしの顔がひとつあればいい。

たったひとつのわたしの顔を大事にしたいだけなんです。

このことを考えながら歩いているとき
思い出す情景があります。
結婚直後、28歳かそこらのわたしが
大学の友人、えがちゃんって男の子とJR新宿駅を歩いているところ。
数人で飲みに行って、帰りの方向が同じだったので、同じホームを目指しながら
こんな話をしました。

最近、自分の人生に飽きてきた。

社会人も6年目を超えてきて、新卒で入社した会社にずっといたわたしは
人生で初めて6年以上同じ組織に所属するという経験に突入していました。
小学校6年間を超えたのは人生史上初。
結婚をしてみたけれど、特に大きく暮らしは変わらなかったし。
(それはわたしが望んでいたことでもあります。こんな結婚生活は嫌だ、の第一位が、「結婚したとたん付き合いが悪くなる」だったので)
自動的に卒業と入学の節目がやってくる学生時代が終わり
これから先の長い人生の何十年と、自分自身で主体的に節目をつくっていかないと、ただただちょっとだけ違うけどほとんどが同じ毎日を積み重ねていくことになるのかなと思うと絶望する。
という話をしたと思います。

月並みな言葉ですが、自分の人生の主役は自分。
そうとらえたとき、わたしの人生というステージは、これから先面白くなるんだろうか。当時は漠然とそんな不安がありました。
人生劇の前半に、おもいっきり起承転結があり、それは卒業と入学の節目にあわせた生活環境や人間関係の変化や、心や体の著しい成長期に伴い受動的におこったことで、これからの人生の起承転結がなさそうなように見えていたのです。

もちろんそれは、とてもとても幸せなことともいえます。
アクシデントやトラブルがない前提の考えだから。人生いつ何が起こるかわからないので、別に不安に思うこともないし、当時は当時で、安定した暮らしを楽しめばよいだけだったのかもしれません。

そのとき、えがちゃんは第一子が生まれたばかりで、わたしが教育関係の仕事をしていたこともあり、子どもの教育ってなんだろうみたいな話をしながら
子育てって、自分の人生のステージにおける、第二幕のはじまりなのかもね、とふと言ってみたんです。

そのときの、えがちゃんの人生劇の場合は
第一幕 自分自身がこどもとして大人になるまでの成長物語
第二幕 子どもとともに暮らす大人としての成長物語
なんじゃないか、と。
タイトルは全ての人の人生でそれぞれ違うことは前提として
舞台が切り替わったことは間違いなさそう。

「ほんまにそやなあ」「それめっちゃわかるわ」とえがちゃんが言っていたきがしますが記憶は定かではありません。わたしはいつも自分が話すことに必死で相手のリアクション覚えてないんですよね。ごめんなさい……関西弁の残像だけあるけど内容を何にも覚えてない。


とにかく、第一幕に飽きてきたわたしは、第二幕のはじまりを何か望んでいたんだと思います。


母になった今、まさに第二幕に奮闘中で。
でもそれはわたしが望んだことです。
第二幕がはじまってよかった。想像以上につらいこともあるけれど。
第二幕が子育てなのか、そうじゃないのかは、もちろんそれぞれの人生次第だけど(この前この話をした別の友人は、海外旅行に行きまくることで第二幕を始めていました)わたしの人生の第二幕がはじまった転機は、えがちゃんと同じく、子育てということになりました。


それで冒頭の話に戻ります。

わたしはこの第二幕で、2つの役割を演じているわけじゃないんです。
両方やらせてよ! だって両方やりたいんだもん! って
配役を2つ分演じようとしているわけじゃない。
そんな実力も体力も根性もないです。

目の前に「母」と「職業人」と2つの台本があり、そのバランスをさぐり、それぞれの最適解を考えて、例えば時間で区切って役を変えてやりきるとか、大女優すぎませんか。できない。

一方で、自分の人生のステージを降りて
こども(や、家族)のステージのサポート役・黒子に回っているわけでもない。
娘が今はじめたばかりの本人の人生の舞台の
主要登場人物は今は主に母であるわたしと父である夫だと思います。
でもわたしは彼女の舞台の黒子になったわけじゃない。

わたしはわたしの人生のステージ第二幕をがんばっている途中で
重要登場人物として、娘もそこに出演している。

2役を欲張っているわけでもなく、ステージを降りたわけでもなく、第一幕から継続して、自分の人生のたった1人の主役を、たった1つの役柄を、一生懸命やっているだけ。

だから、「仕事」も「育児」も両方頑張る、欲張る、には違和感があるんです。

わたしが、ただひとりのわたしとして、人生を歩んではだめですか?

勝手にステージから降りることを強要しないでほしいし
(母なんだから育児メインに考えるべし!的な)

勝手に2役演じることも強要しないでほしいのです。
(母として十分役割を果たした上で仕事も手に入れる的な)


ワーママとして心地よく生きる

自分の人生を心地よく生きる

は、日本語としてとても似ているし、
ワーママはわたしの一部だし、第二幕の大きな大きなキーワードでもあるので、うっかり「ワーママとして心地よく生きる」がテーマのように感じてしまうけれど
この2つって立脚点が大きく違うと思うんです。

うまく説明できなくてもどかしい。


苦しかったここ数年は、
うまれてはじめて子を産み、自分の中に母という新しい個性が生まれ、それにばかり目がいくから、わたしはうっかり
「自分の人生を心地よく生きる」を「ワーママとして心地よく生きる」に読み替えていたんだと思います。

たくさんの役割や個性が複合的に絡みあって「わたし」という人を作っているので
そのワーママ部分だけを取り出して、その中だけでソリューション探しても、解決はされなかった。そういう数年を過ごしました。
だって、ずっと前からわたしの目の前にあるのは「わたしをどう生きるか」という課題だったんだもの。
細切れにされた「役割」ベースで自分をとらえるのはやめよう。
うまくいってる誰かの「ワーママ部分だけ」を真似して当てはめても
自分の人生にうまく馴染むかはわからない。
自分の内側がなんと言っているのか、内なる声に耳をすまそう。

わたしはわたしの人生を生きたいだけ。
それを思い出し、軽微な差ではあるけど、自分の中にある第二幕の演目を
「ワーママとして〜」から「自分の人生を〜」に丁寧に書き換えて
そこから改めて、再出発をしているように感じます。


新宿駅の人混みの中
夜中なのにやたら白い照明に照らされながら歩いたあの光景を
5年後の今、毎日毎日、思い出しています。

脳内会議は終わりません。

さて、仕事します。



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