「私」は証明できるのか。~「クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」を観る

 思っていたよりも凄い映画で、性別役割分業制の是非、フェミニズム運動のバックラッシュの問題、家父長制の復活(というか可視化? 男性支配及び真の男性への欲望(加賀太))、「存在する」ことがそもそも孕んでいるアポリアなど、様々な問題がごっちゃになってストーリーの枠組みを作っている。

 なんというか、ワンイシューな映画ではなく、「ジェンダーと家族のあり方」と「その人がその人として存在すること」という存在論の二つの主題が絡み合っている。いや、絡み合うところまではいかなかったか。ジェンダーのあり方が先に片付いて(片付いてないけど)、その後に存在論の話が浮上するという形かな。なんとなくアニメ映画としては良くも悪くもいびつな形をしていた。

 ジェンダーと家族の関係性についてはまた別で考えることにして、今回は「その人がその人として存在すること」について考えてみたい。

 物語の後半部分では、野原ひろしの記憶をトレースしたロボット(以下:ロボとーちゃん)と、オリジナルの野原ひろしの「どちらが本物のとーちゃんか」という相克が描かれ、最終的にはロボとーちゃんはちちゆれ団との戦いによって損傷(負傷?)し、機能が停止し、人間としての肉体を持った野原ひろしが「とーちゃん」として存続する結末を迎える。

 ここで考えられる問題は「その人を本物のその人であるということをどう証明するか」というものである。
 飲茶が運営する「哲学的な何か、あと科学とか」においてドラえもんの「どこでもドア」による思考実験が展開されていた。

 どこでもドアの仕組みを「ドアを通過する瞬間に肉体や記憶のデータをスキャンし、転移先の座標にデータだけ送信して肉体を再構築する。コピーされた肉体は無痛のまま消去される」と仮定し、「ドアを通る前の自分」と「ドアを通った後の自分」は果たして本当に「同じ自分」と呼べるのか、という命題である。

 自己の同定に懐疑的なのび太に対して、ドラえもんは「今の瞬間ののび太と、次の瞬間ののび太では分子配列が全く異なっていて、分子配列が同じだったら同じ人間、という論理は成立しない。つまり、たとえ肉体がコピーされても、自分は自分」という論理を展開してのび太を説得する。

 しかし、「ドアを通る前の自分」であるのび太は、実は無痛で消去されず、ガスで溶かされるという強烈な痛みを伴いながら削除される。その中で「この痛みを感じているのは自分だけなのであれば、やはり自分は自分だけだ」という結論にいたる(この考えに対してもドラえもんは反駁しているけど、書籍買ってないから読んでない)。

 ドラえもんとのび太の議論は平行線のまま終わる。私たちは「自分は自分である」ということをどう証明すればいいのか。

 ロボとーちゃんの場合、肉体には生身とロボットという大きな差異はあるが、記憶は同一のものを保持している。同一の記憶を保持した二者が互いに「自分こそが本物だ」と主張する場合、その主張をどう証明するのかという問題が生じる。

 この映画の一番の弱点は、この矛盾の解決方法が「一方の存在の否定、消滅」によって行われているという点である。結局ロボとーちゃんとひろしは最後に腕相撲を行い、ひろしが勝利し、ロボとーちゃんは機能停止する。腕相撲の勝敗がその人の存在を証明することにはなんらならないし、ひろしが本物であるという証明は、ロボとーちゃんの「死」によってなされる。ひろし自身は肯定的・積極的自己証明を行わずに、自分が本物であることが規定されてしまった。問題は「解決」されていない。問題は「消去」されたに過ぎない。

 この自己同定の難しさはこの映画に限って起こることではない。近代市民社会の登場以降、自らのアイデンティティは自らが証明しなくてはならない時代が到来し、それと同時に漱石のように自己にはびこる空虚に脅かされ続けながら人々は生活している。その中で市民が自らによる自己同定に挫折し、権威主義的思想に走り、結果として世界大戦が起きたことも記憶に新しい。

 そして、2014年の時点でも、自己同定のあり方を「他者の否定、消失」に依存せざるを得ない状況が続いている。しかも、ひろしの自己同定のためのロボとーちゃんの「死」が極めてヒロイックに描写され、視聴者に「感動」という形で提供されている。

 本来(?)であれば、ロボとーちゃんとひろしは永遠に相克するべきだった。なぜなら、現実にいる人間も他者との相克から逃れることはできないからだ。人は自己同定をしようと思っても、常に自分という答えは手の中から逃げてしまう。これが本当だと思っても、他者の存在によってその同定は疎外され、また本当を見失う。つまり、自己同定も差延に過ぎない。映画は映画として完結しなければならないし、本放送を考えたらロボとーちゃんはどう考えても退場せざるを得ない。そうした宿命づけられた他者の「死」によってひろしの存在は成立している。私たちの存在は、常に誰かの死によって支えられているのか。

 工業資本主義、フォーディズムの社会では労働者の商品化が進み、人間の労働観は規格化されていった。ポストフォーディズムの社会になり、サービス業に関わる人口が増加し、「場面に応じた臨機応変な対応」が各人に求められるようになってきてはいるものの、非正規労働者、派遣労働者の増加から「換えはいくらでもいる」という労働観はいまだはびこっている。

 教育業界でも「人間性」を重んじる教育が展開されようとはしているものの、画一的なルーブリックを使った目標に準拠した評価が行われることで、自己調整学習が実現するよりも、より規格的な「能力・資質」を帯びた生徒が育成される可能性もある。

 そのような社会では、その人がその人である自己同定の必要性は重視されない。それでも、人は「他者とは違う自分」であろうとする。この矛盾は解消されることなく未だ残存している。

 自分は隣に座っている人とどう違って、「自分は隣にいる人ではない」ということをどう証明するのか。「自分が本物だ」という他者が現れたときに、自分をどう証明するのか。はたまた、そんなことを証明しなくても、社会はまわっていくのか。

 もし、ロボとーちゃんがあのまま機能停止せずに生き続けたら、ひろしはどのように自己同定を行ったのか? ひろしの肉体が滅び、ロボとーちゃんが世界に残存したら、ロボとーちゃんはひろしになり得たのか? 物語は終わる。しかし私たちの世界は終わらない。私が終わっても終わらない。相克は延々と生産され続けていくのだろうか。

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