「前夜」

 明日、東京オリンピックが始まる。
 当然中止になるもんだと思っていたけど、どうやら予定通りやるようだ。
 正直な話、オリンピックの開催に関する諸々の出来事に対しては冷笑主義みたいな態度を取ってしまっていた。「どんだけケチつけてもどうせやるんでしょ」とか言いながら次々に噴出する問題に対して鼻で笑うような不誠実な態度でいたと思う。街中に一人で立ちながら「五輪中止!」と訴え続けていた人を横目で見ていた。街中に立つような勇気はなかったけれど、自分の世界の中で「五輪はやめるべきだ」と言っておかなければいけなかった。そもそも、オリンピックを運営できるような社会ではなかったと、もっと主張するべきだった。今更ではあるけど、始まる前に(一部の競技は開始しているけれど)ここに短い文章を遺しておきたい。せめて、悪あがきをしたんだなって数年後にも言えるように。

 東京オリンピックは、僕たちが長年親しんできたものを疑わせ、時にはぶち壊すには十分なイベントだった。
 まさか、時の首相が小林賢太郎に対して「言語道断だ」という非難を浴びせる日が来るだなんて誰が思っていただろうか。
 小林賢太郎はスターだった。おませな中高生が背伸びをするための登竜門として、それぞれの人々の心の中に屹立していたのが小林賢太郎だった。小林賢太郎を好きでいることがプライドを保持し、また小林賢太郎を批判することでもプライドを保持していた。今の30代〜40代の多くの人は小林賢太郎によってどこかセルフブランディングをしていたはずだ。「採集」をみてどれだけ驚愕したか。「器用で不器用な男と不器用で器用な男の話」で「切なさ」を学んだ。「銀河鉄道の夜みたいな夜」にどれだけの感動を得たか。話し始めればキリがない。そんな小林賢太郎の名が政治の場に現れるとも思っていなかったし、不名誉なニュースによってyahooニュースに少し古い写真が掲載されるなんて夢にも思っていなかった。本当にここは僕たちが住んでいたJapanなのか。
 小山田圭吾の件にも共通することだが、これは彼らの私的な場で披露されたものではなく、「メディア」の校閲を通過した上で世に出された「作品」であるということだ(小山田の場合は記事だが)。不規則な発言ではない。もともと外部に発信されることを前提にして収録し、コバケンでも、小山田でもない第三者の手によって編集・校閲が行われ、「これは世に出すには妥当な作品だ」と誰かが判断し、刊行されている。あれらの人種差別、障害者差別・犯罪自慢が世に出ることを自分たちで堰き止めるタイミングは山ほどあった。しかし、誰もダムとしての機能は果たさなかった。もちろん視聴者・購読者も。露悪的な発言・ネタを見て「これは差別だ」「犯罪だ」と声を上げる者はいなかったのだろう。
 そう考えれば、スッキリ!でアイヌ差別の発言があった際には、世に出された後になってしまったのは悔しいが、社会の中に差別を浄化する機能が発揮された。しかも非常に迅速に。今だったら、コバケンのあのネタが世に出たら、すぐさま批判の対象になるだろうか。
 ここで考えるべきなのは、これまでいかにパフォーマーもメディアも消費者も、「人種」というものに対する批判的な思考、他者への人権の配慮が欠けていたかということだろう。そして今もその問題は依然として様々な人の思考に根付いている(もちろん僕も)。その事実が、今回の辞任によって明らかになった。小林賢太郎、小山田圭吾を辞めさせたところでメディアにはびこる差別意識が消滅するわけではない。差別と無関係に生きることができる人はおそらくいない。自分が考えたことのどこに差別が含まれているか、自分が今から発しようとしている言葉には差別が含まれていないか、含まれているとすればその発言を止めることができるのか。発言をしてしまった後はどんな態度をとればいいのか。それは誰しもが考えなければならない。僕たちは差別をして生きているのならば。

 国も国でもちろん最悪だ。特定のアスリートに対してバッシングをするのはやめろ、と五輪大臣が発言していた。元々を辿れば、国民を分断させるような政治を行ってきたのは誰なのか? オリンピックを強行するにしても、どうしてここまで感染拡大を抑え込むことができないのか? 「安心・安全の大会運営」と呪文のように繰り返し唱えているのに、一つとして「安心・安全」を体現できないのはなぜなのか? 少なくともワクチンが10月の早期に接種を希望する人にほとんど行き渡るという見通しが立ったのならば、秋に延期して行えばよかったのではないか?
 中途半端で場当たり的な政策を繰り返し打って感染状況を悪化させ、アスリートファーストとは言いながらも結局はIOCファースト、スポンサーファーストの態度を貫いて最善策を取らず、結局「五輪開催賛成」「反対」で世論を大きく二分させてきた。にも関わらず、政府はあくまでも俯瞰的な立場にいるような振る舞いを取り、国民の一部に責任を押し付けようとする。しかも、自分たちの過ちや能力の低さを謙虚に受け止めることをせずに。
「反日的な人が五輪に反対している」と発言した首相経験者もいた。親日/反日というカテゴライズはもちろん嫌いだが、国民の健康を第一に考えずに、むしろ国民を分断するような政策・発言を繰り返す行政の方がよっぽど反日的ではないか、と思っているのは私だけではないはずだ。

 そうはいっても、僕の中にある差別意識も浮き彫りになったのがオリンピックであった。
 もちろん、今回は両手をあげて喜んだり楽しんだりすることはできないとは思うが、どちらかというとミーハーな僕も国際大会で「日本」というチームを応援するのは好きだった。2019年のラグビーW杯だって散々テレビで観たし、長野五輪のスキージャンプで船木に祈る声を上げる原田の動画を何回も観て、涙していた。
 僕は、国際大会の、スポーツの何に感動しているのだろうか。スポーツそもそもの感動というのはあるのだろうか。それとも、スポーツナショナリズムの誘惑に囚われているのだろうか。もし戦時に生まれていたら、新聞で続々はいってくる大本営発表に胸を躍らせていたのだろうか。
 これから僕たちはどんな顔をしてオリンピックと付き合っていくのだろうか。オリンピックがもたらす「希望」の力を最大限に引き出すために国内に残る諸課題をなかったことにしたり、逆に誇張したりする。「スポーツの力で世界が一つになる」というキャッチコピーを吐きながらも、ナショナリズム的に国々の差異を明確にする。「国民」と「国民でない者」の線引きを強化するし、異文化にルーツを持つ人をスポーツによって包摂することで、異文化に寛大な態度を他国に示しつつ、「国民として包摂していい者」と「包摂しない者」の線引きをも強化していく。国家にとって役に立つのか、立たないのか。生産性はあるのか、ないのか。オリンピックは世界を一つにしない。どこまでいっても、境界線が無化されることはないし、新しい境界線を生む。オリンピックを観て得られる快楽というのは、「自分がこの共同体の中にいることは自明である、自分はこの共同体の中に居場所を有している」という事実に対する快楽であって、スポーツに対する快楽ではないのではないか。これは今回のオリンピックにだけ関連する話ではない。そもそもオリンピックというイベントが内包している性質だ。リオ大会だってそうだったし、次の北京冬季五輪だって、また散々政治的に利用されるだろう。メディアはそんなオリンピックの性質を知ってか知らずか、笑顔を振りまいて戦況を報告していく。新聞の一面にも「日本、初戦を勝利で飾る」なんていう言葉が踊る。まるで戦時だ。でも、みんな喜ぶ。僕も喜んだ。差異化され、包摂しあう中で僕は感動した。僕も共犯者だった。その感動が、どこかで誰かを排除した。

 僕たちは、何に感動し、何に笑い、何を歌い、何を取り込み、何を排除ししているのだろう。それが全て問い直されるとき、僕らの手元には何が残るのだろうか。感動を再考察して、別の新しいものに感動したところで、その感動に排除のシステムはまったく無関係だと言い切ることはできるのだろうか。資本主義という競争と格差が必須要件として装備されている経済システムの中で生きる僕たちに、「排除なき感動」「差別なき笑い」を享受できる日は訪れるのだろうか。そもそも「僕たち」って誰なんだ? 僕は「たち」という言葉の中に誰がいることを想定しているのだろうか。「たち」の中にはいっていない人はいないだろうか。

 明日オリンピックが始まる。アスリートは、政治は、メディアは、僕は、どんな姿勢でオリンピックに臨むのか。

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