「プライベート・ライアン」を観る。

「プライベート・ライアン」を見て真っ先に連想したのは若松孝二の「実録・連合赤軍」だった。
 原田眞人監督の「突入せよ!あさま山荘」を観た若松は「この映画はあさま山荘事件を権力側の視点から描いていない」と批判し、逆に連合赤軍側の視点に立ち、まさにあさま山荘事件を「総括」する映画を制作した。
 確かに、若松の言う通り「突入せよ!」はテロリスト・連合赤軍をまったく描かず、指揮官佐々淳行を中心とした警察組織の奮闘のみを描いている。連合赤軍側で描かれるのは、あさま山荘の壁に空けられた穴から突き出したショットガンの銃口のみ。言葉は一切発さず、彼らの内面は全てショットガンの銃声によって代弁される。その姿が唯一描写されるのは、あさま山荘制圧後、連合赤軍が権力に屈服したあと、連行されるその瞬間だけであり、「敗者」「管理される側」になって初めてその姿を現す。それはまるで、権力に管理されて初めて「国民」という身体が得られるということを比喩しているかのようでもある。その描写を観れば、若松が「権力側の視点でしか描いていない」と批判するのもわかる。
 若松が制作した「実録」も、決して連合赤軍を賛美している内容ではない。人間が自らの論理を防衛するために、欲望を抑圧して自己を統制しようとするために腐敗していく姿が克明に描かれている。若松は「突入せよ!」のオマージュのように、警察組織の姿を描写しない。目には目を、歯には歯を。「実録」の方では、村上春樹が言うような「言語ではなく武力を用いて人民を支配しようとする壁」として警察組織が描かれる。
 もはやこれは「あさま山荘」の感想ではないか…と思うが、ここまで読めば、「プライベート・ライアン」との繋がりも見えてくるだろう。「プライベート・ライアン」では、ナチス・ドイツが「突入せよ!」における連合赤軍のように、「実録」における警察組織のように、「内面を持たない敵」としてしか描かれていない。トム・ハンクス演じるミラー大尉を中心とする中隊に所属する隊員たちにそれぞれドラマがあり、人格があるのであれば、その隊員たちを容赦なく殺していくナチスの兵隊の一人一人にもそれがあってしかるべきである。ナチスがした(「ナチスが」という主語に正当性があるかは全然わからん)ことは許されるべきことではない。が、映画としては米軍の「内面」を克明に描くためには、ナチスの「内面」は不純物になり、物語からは排除される。結果としては「突入せよ!」と同じように「戦勝国」の視点のみからノルマンディ上陸作戦をめぐる一連の事件が描かれている。
 しかし、ノルマンディでは「正義」として機能した米軍は、ノルマンディ上陸から約1年後に日本に二つの原子爆弾を投下し、一瞬にして数十万人の人間の命を奪い、いまだに消えない「後遺症」(辞書的な意味でも、象徴的な意味でも)を遺すことになる。いや、米軍にとってはこの行為もあるいは「正義」だったのだろう。もしかしたら、今でも。
 でも、内面って描写されてなければ存在しないことになるのか? 言葉として物語の上に表出していないものは存在しないということになれば、映画の外の世界でもその論理は応用されてもおかしくはない。じゃあナチス側のドラマも描いていれば物語としての質は上がるのか? 内面が描かれない映画は存在しないのか? 全ての登場人物の内面が多角的に描かれている映画が優秀な映画なのだろうか。人間の内面ってなんだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?