「THE SACRAMENT」を観る

あらすじと感想

 久々の週末映画批評。いろいろ観てたんですけどレビューを書く気になるような映画にはなかなか出会えなかった。

 そこで出会ったのが邦題「サクラメント 死の楽園」。カルト系フィクションフェチの私としてはとても良い題材だった。
 あらすじとしては、<FATHER>と名乗る人物が主宰しているコミュニティにテレビクルーが取材に訪れ、コミュニティの秘密に徐々に巻き込まれていく、というお話。テレビカメラを視点としているため、主観的な映像で構成されていて、緊迫感のある演出が実現している。

 この映画にはモデルとなる実在の事件がある。それが「人民寺院」による集団自殺である。人民寺院はジム・ジョーンズが創設したキリスト教系新宗教のコミュニティである。共産主義、社会主義の思想を組み合わせながら、多くの人が集団生活を営んでいた。
 しかし、1978年に918人の人々が集団自殺及び殺人によって命を落とした。集団自殺の直前になされたジム・ジョーンズの演説がテープに録音されており、wikiのページなどで聴くこともできる。
 この事件にのっとって本映画は制作されており、規模は小さくなったものの、映画のラストでは集団自殺によって命を落としていく信者の姿が映し出されている。

 中盤の緊迫した場面はなかなか怖く観れたし、ハンディカメラを中心とした撮影によってドキュメンタリ感は作り出せている。ただ、テレビクルーが滞在した2日間に突如として集団自殺に流れていくというのはなかなか性急な流れだ。確かに、メディアが入ることによって教団内部の歪みが露呈することは納得できるが、1日や2日で全てが破綻してしまうまでに混乱させるのは無理がある。
 人民寺院はジム・ジョーンズによる肉体的・性的暴行による信者の支配が横行していたとされている。この映画にはそのような教祖による信者への圧政の光景は直接的に描写されていない。にも関わらず、一部の信者は教祖の強権ぶりに怯え、脱出を目論んでいる。共同体を警備している男性がマシンガンで武装するなど、ものものしい雰囲気は演出しているものの、「共同体の中の恐怖」の描写が手薄で説得力に欠けた。

 たとえばPS2ゲーム「SIREN」では、舞台となる「羽生蛇村(バミューダのパロディ)」を支配する「眞魚教」の設定は強固なものだった。ストーリーに直接描写されなくとも、ゲーム内でコレクションできる品々を観ていくと眞魚教の教えに触れることができる。その設定が強固だからこそ、眞魚教に翻弄されていく人々を克明に描写できる。
 直接描写するまでにはいかずとも、うまくその空気を匂わせるような演出が「サクラメント」にもほしかったなぁ、という印象。

共同体の結束と攻撃性

 たまたまちょっと前に「アルカディア」(2018)を観たんだけど、あの映画も都市的空間から隔絶された宗教的コミュニティを取り扱った映画だった。主人公となる兄弟はもともとそのコミュニティで育ったが、二人で脱出し、都市の中で生活を営んでいた。しかし、低賃金の労働を続けていて生活が疲弊していた。そこに教団からビデオレターが送られ、それを観た弟がコミュニティに帰ろうと言い始める。兄は弟を止めたかったが、渋々行くことを了承。コミュニティに戻った二人はその中で不思議な現象を経験していく…みたいな話なんだけど、アメリカの映画ってこういうコミュニティを取り扱った映画が多いのかね? 
 アルカディアは最後まで観てみるととんでもファンタジーだったので全体としては良い印象ではないけど、前半のなんともいえない同質意識に基づいた不気味な雰囲気は好きだった。

 日本のフィクションにはこのようなコミュニティを描写したような映画があっただろうか。
 現実世界では武者小路実篤が思想主となって築かれた「新しき村」がある。新しき村は埼玉県入間郡に位置し、村民は少なくなったが、現在でも鶏卵の生産などで共同体としての生計を立てながら、一般財団法人として存続している。

 詳細はこの記事に記載されている。月に3万5千円の生活費が支給されたり、モノを共有するという制度は共産・社会主義の思想にも通ずる部分がある。
 しかし、新しき村は「宗教的コミュニティ」ではない。武者小路の思想に共感した人々によって形成されてはいるが、武者小路は教祖として村民の頂点に君臨し、支配する、というヒエラルキーはない。現に武者小路が亡くなったあとでも村は存続し、機能している。

 宗教的コミュニティとして代表的なものは上九一色村を拠点としたオウム真理教のサティアン群が挙げられる。麻原彰晃を教祖とした宗教共同体は厳しい階層構造を持っていた。これは「サクラメント」に描かれた教団と通ずる。
 フィクションでは貫井徳郎の『慟哭』などにも厳格な階層を持つ宗教共同体が描写されている。

 また、フィクションの中で描かれたものとして人々の印象に深く刻まれているものとしてはジブリ映画「もののけ姫」における「たたら場」が挙げられるだろう。
「たたら場」も元々住んでいた村が戦などでやけたり、らい病(ハンセン病)に罹患し、差別されたあげく村から追放された者などで形成されている。この部分は「サクラメント」や「アルカディア」のように、都市生活に疲弊した人々が隔絶された共同体に身を寄せる構造と共通点が多い。

 オウムは崩壊に向かって、「外側」にも「内側」にも攻撃性を向けた。外側にはサリン事件として、内側には度重なるリンチ事件として。
 たたら場も製鉄量の減少に伴って、シシ神の森への軍事的な介入を画策する。
「サクラメント」や人民寺院は攻撃性は外へは向かずに、内部の集団自殺によって自滅の道を選んだ。

 共同体は強固な安定を得られる反面、それが揺らいだときに大きな攻撃性を持つという側面も持ち合わせる。ナショナリズムが各国で力を持ちつつある現代社会においては、ナショナリズムの強まり自体が国家内の安定性の揺らぎと表裏一体でもある。弱まっているから、結束を求める。本来は内部の結束を促すナショナリズムが、他国との軋轢を生み、外側に向いた大きな攻撃性に転換する恐れもある。

 人が生活を営むためには、大小のコミュニティに属さざるを得ない。そこには必ず同調意識とアイデンティティとの葛藤が生み出される。その葛藤をいかにコントロールし、正の方向への力学に転換するか、ということを考えなければならない。

 

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