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【三国志】赤壁の戦い前夜・孫権政権の舞台裏を考えてみた

赤壁の戦いの前段階で、孫権政権が降伏か抗戦かで紛糾する場面があるが、彼らの腹が結局はどこにあったのか考えると面白いかもしれない。

■抗戦したいけど出来ない孫権の本音

孫氏政権は豪族の寄合所帯で、豪族達が降伏を唱えている以上、本来、孫権には選択肢がない。

魯粛との個別の会話で孫権は自身の腹は抗戦だと明かすが、豪族達の手前、表立って抗戦と言えない状況だったと考えられる。

曹操の南下を前に、魯粛が劉表政権やその後は劉備を味方につける工作をしに行ったのも、純粋な軍事同盟の面はあったろうが、同時に、外部と結ぶ事で孫氏政権内の降伏論を抑え込む意図もあったのかもしれない。

そもそも魯粛の任務は情勢視察と、後は劉表と同盟できないか探る事があるかで、劉備と同盟しましょうとその部下(孔明)まで連れて帰って来るのは、やり過ぎの面がややある。

降伏派に怒られるor更迭されても文句は言えない。

が、孫権の腹が抗戦なら、
外に味方を作るしかない。

=多少勝手な事をしても、そこに沿ってれば孫権は庇わざるを得ない、という目論見が魯粛にはあったのではないか。

曹操の大軍を前に孫氏政権の面々は何を思ったのか

■正論マン・諸葛亮の役割
その状況で、対曹操の同盟を説く為に、孫氏政権に乗り込んだ諸葛亮の腹を考えてみる。

諸葛亮も当時の孫氏政権の内情について、魯粛からある程度の説明は受けたはず。

であれば、諸葛亮は「政権の外の人」として、正論(正義論)のポジショントークをするのがベストだったのではないか。

現に、記録が残っている諸葛亮と孫権の対話は、戦略というより正義論に終始している。
(曹操は悪だから劉備は抗戦する、的な。)

諸葛亮が孫氏政権の会議で、空気が読めない人のフリをしながら正義論トークをする事は、孫権にとって、豪族達の降伏論を抑える掩護射撃になったのではないか。

(特に、張昭の様な名士達は立場上、正義論に弱い。)

逆に曹操に勝てるかの戦略・戦術的な話は、外部の諸葛亮がしても
「そら、劉備さんは負けた直後で味方が欲しいから勝てると仰いますわ」と思われて説得力が無い。

勝てるかどうかの話は、孫権や魯粛から豪族達にした方が良い。

■したたかな政治家?周瑜の狙い
この時、周瑜が孫氏領の僻地(鄱陽)に出ていたのもきな臭い。

赤壁前夜、周瑜はなぜ首府に居なかったのだろうか?

周瑜は孫氏政権の軍事のトップに近い立場の上、自前の兵力も持っていた。

当時、使いとして出ていたらしいが、軍のトップを派遣する使いがあるのか…。
(三國志演義では、水軍の訓練をしていた事になってるが、そんなもん切迫してる北の国境でやれよ、という話である。)

外征していたようでもない。

推論だが、降伏派が強い状況で政権中枢に居ても不利なので、距離を置いていたのではないか。

魯粛が外部の勢力(劉備)を味方につけ、抗戦論の足場固めができたと見て、政権中枢に帰って来たのではないか。

自身の兵力を連れて。

最初から軍権や兵力に物を言わせても、豪族達に抵抗される。

が、降伏派の気勢が削がれた段階であれば、周瑜とその兵力の帰還は、抗戦論を勢いづかせる事に繋がったのではないか。

その様に考えると、周瑜の強かな政治家としての顔が見えて来る。
(無論、魯粛が入れ知恵した可能性もあるが。)

…という考察がどこまで真に迫っているかは、結局はわからない。

けれど例えばこの様に考えてみると、少し赤壁前夜の解像度が上がるかもしれない。