福田村事件 感想

とりあえず今感じている感覚や感想を忘れる前に残さなければと思い、1,2年ぶりにnoteを開いて書いています。
何と表現したらいいのかわからない感覚になっています。
喉の奥で何か引っかかっているような、いつもの3分の1でしか呼吸ができないようななんだか息苦しい感覚です。

なんで知らなかったのかなと見た後に思いました。
日本史の勉強あれだけ高校のとき頑張ったのに、なんにも知らなかった。日本史の教科書に書いていたかなと考えてみましたが、関東大震災に関する記述はほんの少しで、私は震災があったことしか記憶していませんでした。
朝鮮の方がひどい目に遭ったということも今思えば書いていたかもしれませんが、それほど印象に残っていなかった。テストに出てくる単語は1923年「関東大震災」が起こったということだけ、記述でその後何があったのか聞かれたことはなかったと思います。

ゼミの先生に「見た方がいいけど、心が元気なときに行った方がいい」と言われて、ある程度覚悟して見に行ったつもりでしたが、それでも相当苦しい。真面目な、日本やその村を守るという正義感をもった普通の人たちが普通の人たちを〇してしまう、人を〇してしまった人たちもその後相当苦しんでいる、平気で人を〇せる人だけが虐殺をするのではない。
人ひとりの力を超えて自分の責任でなくなってしまうときに人は何でもできてしまう
個人の特性によるものではない
○○のため、という見えない組織、ルール、しきたりのために、それを理由にして何でもできてしまう、納得してしまう
そこにいるのは人でしかないのに
確かにそこに存在しているのは名前をもった一人の人だけであるのに

まずそこに人がいるから組織やルールができていくのだと思う
それなのに、その組織を守るために人がないものにされたり、暴力をうけたりしなければならないのはおかしい
そこにいる人を大切にすることができないものなんて、本当に必要なのだろうか
なんのためにそんな行動をしなければならないのだろうか

物事を大きい主語で語ると見えなくなるものがある

「ここに住み続けなければならない。」と映画の中で村長が言っていました。
私と当時の人では意識が違うところもあるかもしれない
でも共通するところも確かにある
村という単位ではなく、家族や会社といった単位でそこに居続けなければ生活できない、もしくはそう思い込んでしまうことはあるだろう。
ここを出たらどうなるかわからないという恐怖がそこのルールをどんなものであっても正当化し、当たり前に感じてしまうのだろう、、

そして何よりも怖いのは、今私はその行為をおかしい、絶対にしてはいけないと感じることができるが、
もしその場にいたら、自分も一緒になってその行為をしているかもしれないということだ。
周りの人が言うことから逸れたことをするのは正直こわい。
でも私が今感じていることはその当時からしたら異端であり、敵の味方をするような考え方になってしまう。

自分の頭で考える。

雑多な文章になってしまったが、今感じたことを忘れないための記録として書き残しておく。

映画『福田村事件』公式サイト (fukudamura1923.jp)

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