悪夢のあとで


#創作大賞2024 #エッセイ部門
 人には心にいくつかの傷があると思います。けれど、産まれてきただけで奇跡だなと、病気をしながらも思うようになりました。さすがに四十年以上生かされてきて、令和初の冬季オリンピックを拝見していましたら、「時代は変わりました!時代は受け継がれました!」という実況を耳にし、ほろりと涙してしまいました。どなたのメダルの時だったかを覚えていなくて、申し訳ありませんが、「・・あぁ・・私が二十代の時、地元佐賀新聞の声の欄、ひろば欄の、たくまさん!と愛して頂いたけれど・・もう、みんな、私のことなど忘れ去られただろうなぁ・・淋しいなぁ・・。」と、思っていたからです。そして一度だけ、{私がエッセイを書くようになった理由}と
というエッセイを掲載して頂いたのですが、今だから告白させて下さい。本当はちがうんです! 
 一番最初にひろば欄に投稿したのは中学生の時。地元佐賀を舞台にした日本映画「月光の夏」を映画館まで観に行った感想を掲載して頂いたのが最初でした。学校の先生や、家族、友人にも、「すごいね!」と驚かれましたが、私の家系で、新聞に取り上げられた人がいなかったので、その時のエッセイを切り抜いておかなかったのが悔やまれます。けれど、佐賀新聞社や、図書館には残っているかなぁ?とも思うので、まぁ、いいか と。 そして、そのあとのエッセイは二十一才の時から。
 二度目は、本を図書室に寄贈されてあるスタンプがあって、愛や真心を感じ、私も・・というのが最初で、そうしたらある日、佐賀新聞社から図書券が届き、「えぇっ?いいの?」と、嬉しかったこと。そして・・そして!
三度目が、佐賀県民も、病院も、全国の人が傷ついた、佐賀の少年による「西鉄バスジャック事件」が起き、当時の佐賀新聞、ひろば欄でも、「今時の子供は!」「今時の親は!」などという、誹謗中傷が何週間も続き、こん
なのばっかり読みたくない!もっといい子もいるんです!と、複雑に揺れる心をととのえて、書いたエッセイは、
「私は家事が一段落ついた夕方、愛犬とお散歩に行くのが日課になっています。すると、小学生や中学生、高校生がきれいな瞳であいさつしをして下さいます。あなたたちが学校でも家庭でもない、社会に接する時、それはいつも優しいものであってほしいと、心から願っています。」と、祈りながら書いたエッセイが、ひろば欄の一番いい所に掲載され、お花のイラストもとなりにあり、(よかった・・!)と、安堵したのもつかの間、次の日から何日経っても、バスジャック事件の少年に関する誹謗中傷が、一切載らなくなり、私は驚いて、(何故・・?私のエッセイが掲載されたから・・?)
と、使命感のようなものを感じ、ならば!と、月一回は・・!と、私の感じた事を投稿するようになりました。けれど、私のエッセイが掲載された、ということは、どなたかのエッセイが落とされたということ・・。ならば!と、前よりもいい作品を!と、努力したのも事実ですし、私も落とされることもありますので、プロでもなんでもありません。  その後、町の図書室で、バスジャック事件についての本があったので、お借りしましたら、親御さんが、困って警察へ行くと、病院へ行け!といわれ、病院へ行ったら、
警察へ行け!といわれ、困っておられたことを知りました。そしてふと、四十才になった時、「私は・・バスジャック事件が起きなければ、こんなにたくさんのエッセイや、川柳、短歌、童話も書いていなかったのでは・・。」と思い、そして、「これは・・もう、いいとか悪いとかではなく、運命だったとしかいいようがない!」と、結論をだしました。 [運命の出逢い]とか、「伝説の歌姫」とか、「奇跡の人」など、そういう言葉が象徴するのは、その人が一生懸命生きた証、誉れなのだと思います。そして、運命には色んな偶然が必然になるようです。
 私の場合は、私の家が、佐賀新聞をとっている家だったこと。そして、私が佐賀新聞が大好きで、文章を編むことがとても好きだったこと。  そして・・。私は元々、画家になりたかった人間でして、中学の時は不登校をしていましたが、美術の授業の時は必ず出席し、そういう授業態度もよかったからか、中学一年生から三年生まで、美術の成績だけはオール5でした。美術の先生が、「長崎に、寮制だけど、美術の専門学校があるから、そこに
行ってみたら?」と、薦めて下さって、家に帰るまで、あれこれと、(寮制だったら、朝から晩までずっと美術の勉強ができる!楽しそうだし、行きたいな・・・でも・・寮制なら、お金もかかるんじゃぁ・・今うち、大変だし・・私、ずっと、眠れない・・奨学金とか・・あぁ・・どうしたら・・)と、子供なりに考えて、家についたとき、母に、「あのう・・お母さ・・ん・・!」と話しかけたら、「あー!頭の痛か!」と、まったく聞き耳もたずで、自分の部屋に入って、泣きながら画家になる夢をあきらめました。
(絵は二十歳まで!)と決めて、文才も授かっていたので、詩や作文でも、めったにもらえない賞をいただいたりしていたこともあり、文才のほうを大切にしていこう、と決めたあの日の夜。
 もし・・・この時、母が相談に乗ってくれていたら・・・そこで私の人生も変わっていたはずです。絵の道に進んでいたら、あのエッセイは書けなかったのではないかと。そのことに気付いたとき、私は背筋がゾッとしました。そして、こういう偶然が必然に思えてならない。「ペンは剣よりも強し」という言葉は知っていましたが、まさか自分がその役割を果たすことになろうとは、夢にも思っていなかったからです。絶大な影響力を知ったのは後からだったからです。

 そして、私が画家の道へ進まなかったことは、日本の美術会にとっては、大きな損失だったかもしれない。いや、自分でそこまでいってしまうのは、言い過ぎでしょうね。のちに、私が三十六才頃、母には、「本当は画家の卵だった。」と、話したことがあります。
母は、驚きながら、戸惑いながら、「あら・・。いってくれたらよかったのに・・・。」と、申し訳なさそうにいってくれたのですが、「いえないよ。思春期の時だよ?子供なりに気を遣うから。」と、いったあと、私らしく、「でも・・美術の専門学校へ行っていたら、ジョンとか、ピイちゃんとの思い出がなかったんだろうな、どっちがよかったかな、と考えた時、ジョンとかピイちゃんの思い出のほうがよかったな、と思ってね。だから私は、これでよかったんだと。」と、フォローもしました。言葉足らずで、自分の気持ちを上手にいえなかったりする母も、年齢が年齢なので、大切にしたくて。その時、母も、「うん・・!うん・・!」と返事をするのが、やっとでした。
 けれど、人は、生まれた時代、生まれた場所で、その人に与えられた役割を果たすことが一番いいのだな、と私は思います。小さな事件でも、必ず、加害者、被害者がいます。事件になる前に、どうにか防げなかったのか、これからできる対策は・・!などと、たった一つの地球、たった一つの命、こんなに色々なことが進歩しているのに、地震、災害にも、泣かされる現代社会。愚かにも戦争をしている国まで。 あの時、十七才だった少年は、罪を償って、今どこで何をしているのでしょう。今さら、バスジャック事件のことをいわないで下さいよ!と、思われる方も多くおられるでしょうけれど、私も物書きのはしくれ。あのエッセイが生まれたいきさつを、どこかで綴っておかなければ、忘れられてしまうのが、淋しくて応募しました。そして、よき理解者の弟にだけ、「実は・・。」と、今回の応募に関して打ち明けたら、「あぁ、あの時の・・。パニックになっていたのを鎮めた、聖なる
エッセイだね。今でもね。」といってくれて、物書きしていてよかったとジーンときました。「でも・・。」と、弟は、「これだけの働きをしてくれた人に対して、謝礼が図書券千円だけって・・失礼のような?姉さんは、お金のためじゃなく、純粋な気持ちで書いてるから、気持ちが届いたんだろうけど・・。」「ありがとう。多くの人に読んでもらいたかったから、掲載
してもらえただけでも、ありがたかった。」「うわぁー!我が姉ながら、立派!そういう人じゃなかったら、聖なるエッセイは書けないよね!」とは、今年の五月の弟との会話。
 犠牲になられた方がおられることと、元少年の更生の妨げになってしまうのも・・。と、遠慮して本当のことを書けなかった二十年前。今も、ご冥福を祈りながら、物書きしています。





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