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母の家を片付ける その後ー 娘、ついに帯状疱疹になる

実家の片付けリポート、前回で今回手をつけたプロジェクトはほぼ終了でまとめまでしたのですが。

いやいや、あなたまだまだよ。始まりはこれから。。。。という経験者のエピソードなども聞こえてくる昨今、1月18日で一度終了、お疲れさん! と思ったところで、どっと疲れが。

寄る年波であるわけなので、しばらく間をおいてどかんと体調に出ました。ということで、今回は「その後」編で疲れやストレスについて書いてみようと思います。

片付ける前、絶縁状態だった私

母と私。思春期ぐらいまでは、仲良し親子でした。うーん、親子と言っていいのだろうか。母は、私と一緒にいたら「親子に見えませんね、姉妹みたい」と言われることをデフォルトとして生きていたので、普通に「母と子」と見られることをひどく嫌っていました。娘さんですか、なんて言われたら一気に機嫌悪くなるから、いつの間にか私も、姉妹みたいと言われることに平穏を感じるようになっていった。

なんなんだろうな、あの「若く見られる」ことへの執着。

一方私生活では役割は逆転していて、どこからか私は、母のお守役になりました。支配されながら頼られている(依存されている)といった感じだろか。

「どっちが親なのかわからないわー」

とよく、うれしそうに友だちに話していたよ。
いや、頼むよ。私も親がほしいよ。

長期間に渡る夫との不仲というのもあって、家庭の中での一人娘のワタシの役目はいろいろ複雑だった。いやはや、ほんと。生き直せるなら素直で平和な家庭に生まれたい。DVあり、ネグレクトあり。トラブルのデパート。ほんとに過酷じゃった。

というような長い歴史の中で、まあ、いろいろあるわけです。

私はたぶん、母と友だち関係だったら、何十年も前に絶好して音信不通になっていると思う。ADHD傾向があるため、筋が通らない言動に振り回され、傷に塩を塗るようなことが起こり、思ったことがすぐ顔と言葉に出るので、「ソンナヒドイコトヲナゼ、イワレナクテハナラナイノデスカ」という言葉がぴょんぴょん出てしまう。

そうして人間関係をいろいろ失うわけですが、

こちとら親子なので。

何があっても関係は切れない。

(それでもまあ、美人さんで魅力的でもあるので、人も集まる。そして時間を置くと気づいて反省したりすることもある。そういうのの繰り返し。「わがままだけれどかわいい人」で生きてこれた幸福な人なのだと思う)

まあ、でもこちとらは何十年も密着しとりますので。「まさにあの時だよ!」という超絶に近い縁絶ちポイントが、何度もあるわけです。中でもひどかったのが4回。4回も絶交する友だちなんていないよ。ほんと、親子って因果。

その都度、ぐわーんと距離を置くわけです。
それ、意地を張っているとか喧嘩してるとか、そういうのじゃなくて。もう、心身が折れまくるので、身を守るためにそうする。ってか、電話取るだけで肩が鉄板のように凝り固まる。。。。みたいな身体症状が出てしまうので、こりゃもう、離れとくしかないの。健康のためにも。

でもね、母に同じことが起きているわけではなく。本人は何が理由なのかもわからず、「なにこの子、機嫌悪くなって感じ悪い」ぐらいにしか思っていないわけです。

強烈母との関係の特徴として、こうして娘だけが身体症状を抱えるというのがあるのだそうですよ。親は???のまま。結局親を変えることはできないので、ひたすら物理的精神的距離を取るしかないのね。


思い起こせば、私、ずっとすごくよくやってたと思うのです。飛行機に乗ったことがなかった父のために海外旅行を何度も計画したし、毎年夏休みは孫とのバス旅行をプレゼントしてた。母の誕生日、父の誕生日、父の日母の日、敬老の日、バレンタイン。プレゼント欠かさなかった。

孝行娘になることで、どこかで信じたかったんだと思う、自分は幸福な家庭に生まれたのだ、って。特に子供ができて祖父母として関わり合うようになってからは、より強くそう願っていた。一触即発の微妙なバランスの上に成り立っていた家庭のご機嫌取りを、どこかでしていたのかもしれない。


それでもね、現実は過酷なのよね。
そしてどんなに距離を取りたい出来事が起きたとしても、その過酷なつながりを、切ることはできないんだよね。

たとえば父が倒れたとか入院したとか、そのあと亡くなった葬式どうする墓どうする。。。。と。頑張って離れても、またどこかで引き戻される。

なんたって私、一人娘ですから。

結局ストレスマックスで付き合い続けた父の入院から死亡劇場の後。
極めつけは父の死後半年で私がガンになる。。。。というまさかの展開へ。

ストレスこわい。
ってか父の呪いかよ。

とまで思ったけど。まあ、そういうことは思わないのが一番なので、なんとか頑張って生還す。運良かった。
なんやかんやで私は幸せだし、愛する人にも恵まれている。神様ありがとう。


でね。

この「ガンになって手術を受けて快復をしていく」というプロセスの中で、父を亡くして一人暮らしとなった母との、おそらく人生で一番でっかい絶縁ポイントがやってきちゃったのだね。

これはもう、超絶級で。(えっと、本人は原因が何だったのかもわかっていないようです。今話題の森発言のような状態に近いかも>笑)

いい年してなんだよって思われるかもしれないけど、あまりに超絶な出来事だったので、子供時代から我慢してきたさまざまなことが噴出して、私しゃもう、関係修復不可というところまで。

それ、かなりの期間続きました。

はい、ほんと。つまり私、一人暮らしになった母をそれくらい、放置しちゃっていたんです。

コロナ禍だったのも幸いでした。伝染るから会わない。
でも、そうしてやり過ごした時間の中で、お互い年も取っていき。だんだんちょっと不安になってきたんじゃよね。いつ何があるかわからないって。

そんな時に、私に人生のちょっとした転換期がやってきて、そんな時期に孫である息子が

「ちゃーちゃんの寝室を1階に変えたらどうかな」とポツリと言った。今回の片付け劇はそこから始まったわけなのでした。

後悔したくない、ただそれだけの理由だった

まあ、つまりは

このままの状態で母に何かあったら、たぶん私は自分を責める

と思ったことと、そして

やっぱり人として慈愛を持って母親のことを考えられる人にワタシハナリタイ

と思ったこと。そりゃそうですよ。誰も好き好んでこんな状態にあるわけじゃない。人生の最後のほうぐらい、いい関係でいたいじゃないですか。

という。

ほんと、母のためというよりは、ただただ、自分が後悔しないために。それが理由だったように思います。

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でもさ、それでいいんだよね、きっと。例えば、私は去年大事な友人をガンで亡くしたんだけど。最後の方の時間に、彼女のために何ができるかってことをいろいろ考えて、でも答えが見えなくて。
その時、ああ、ただ自分があとから後悔しないと思えることだけをしようと思って、手紙を書いたり、手作り品を送り続けたりした。たぶん、誰かのためにしてあげていると思うより、自分のためにさせていただいているって思うほうが、ずっと健全じゃないのかなーって思うようになって。

そんなことも関係して。まあ、自分が後悔しないためにできることを、とはじめた片付けだったのでした。

そして娘は帯状疱疹になる

1ヶ月ほどの間、ほんとよく働いた。いろいろ交渉したりスケジューリングしたり、頭も使った。

たぶん、それについてくる母も大変だったと思う。

私より24歳も年上なのだ。きっと疲れたと思う。

そして片付けをしている間は、私もちょっとは優しくなれて、いろいろ話もできたし、伝えたいことも伝えることができた。ほんとに、やってよかった。

えっと、前回最終回と銘打った日記では、まあ、そんなところで終わっているわけですが。


それから3週間後ね。

おれ、帯状疱疹になりましただ。


まあ、去年の大半が愛犬の介護で寝不足が続き、その後亡くなってしまい。その直後から実家の片付けをはじめて走り切ること1ヶ月。その後もちょいちょいとやることがいろいろあり。

いろいろなことが重なっていたのは確かなんだけど。


やっぱりね、思うんです。

片付けるという物理的作業だけではなくて、そこに「母と関わり続ける」というタスクもあったんだ、って。

それに伴う心理的な葛藤の負担は、思った以上に大きかったんじゃないかと。いや、いいこともいっぱいあったけど、やっぱり、関わり続けることにすごくエネルギーがいる関係性であるのは、確かなんだなーって。


というわけで、ただいま帯状疱疹治療中。

一気に物事を解決したくなって集中して取り組んだ時間は大切にしながら、これからは自分も大切にしながら、相手も大切にするという関わり方をしていかなくちゃだなーと思うわけです。 

いや、だって、これからまだまだいろいろあるわけでしょ?

私が沈没したら、孫である息子が背負うことになるので、それはアカンぜよ、と。

それも、今回の学びでした。

心身の距離のとり方、大事。


しばらくは自分第一で。


でも、やった達成感はとっても大きい。
この年令でも、少しは成長した気がします。

また、何かあったら書きますー!

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