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ヨワル前にそもそもヨワッテイタ自分【インドア目線】

8月某日、体調を崩しました。


予定していた主催イベントが、
当該地域の時短営業要請を鑑み中止を決定、

参加予定だった方が交流できる機会を、
オンラインでも作れないかと、気分を切り替えて準備していたところ、

発熱、寒気、数日立っても収まらない咳、いつもより上がらない自転車のペース
などの症状が出てきて、
イベントの件は仲間にバトンタッチして安静にしていました。

自分に表れた症状は、連日報じられていたニュースや、
当事者自らの発信情報などで聞いていたものと比べたらずいぶんと軽く、

公私共に僕経路で感染した人もおらず、
そこはひとまず安心。

(しかし僕がどこで“もらった”のかを断定できる情報もありませんでした)

療養について、保健所や仕事場とのやり取りが一通り終わったあとで、

僕と濃い関わりのあった方、
近日中に関わる予定のあった方、
たまたまお誘いなとで連絡を取っていた方などには今回の一件を伝え、

当然、これが不用意に拡がることはありませんでした。

一方で、家族の知人や近所や地域など、
イザワダイスケ個人との直接的な関りの度合いの薄い方々へは、


いきなり訪れたハプニングの不透明さゆえ、
僕のコントロールできない範囲で情報が広がったのは、いうまでもありませんでした。

僕自身も確証のある情報をもってないのに、僕にコントロールできない範囲で

どれだけの人が憶測をしてたのか、
考えてくれてたのか、
逆に配慮してあまり考えないでいてくれたのか、

稲刈り・収穫祭シーズンの今になって
少しずつ自分の目で確認できています。

しかし、申し訳無さを胸に秘めつつも、
“範囲内”と思われる人に、僕から
「お騒がせしました」と、自己保身と自己満足のために言ったとて、

相手としては初知り情報だったために、
かえって気まずくなる…
そんなこともあったので、

ただでさえインドアな僕も、
より慎重にならざるを得ませんでした。

(そしてこれらが、県が気にしていること、対応していることの1つだなと身を持って感じました)

そんなことで、何もできない生活を急遽送っていましたが、

この一件で、僕が急に心身弱ったというよりは、

急な災害で折れたのではなく、元々ジワリジワリと柱が腐り、
カンタンに折れそうになっていたこと

帰省してからの生活で、僕そのものが弱っていたことを実感しました。

眼の事情で、
地方に住んでいながら車を運転できない僕は

かかりつけの眼科や、
PCR検査のできる病院にも自転車で数十分。

そもそも検査で眼をいじった後には
バスなど自分の運転以外で帰るよう勧められるので、
家族と予定を合わせる日もあります。

今回の一件のためにPCR検査を受けに行った時も、
検査は原則、車内での検体採取を想定した体制が敷かれているため、
病院側に手間を取らせてしまったり、

行き来に公共交通機関の利用はNGなため、
検査後も「これは陽性かもしれないな」と頭の片隅に置きながら、
考えを整理したり、あるいは誤魔化したりするように

徒歩で1時間半、人目を忍ぶように、休憩を挟みながら、
どうにか家に帰ったのでした。
(その日の日没前に、陽性であることが知らされました)

大学時代に、
病めるときも健やかなるときも自分の習慣になっていた“ギャラリー巡り”も、

それらが自転車で立ち寄れる距離感にあったり、
ハシゴできたからはじめて出逢えたものです。

アート関係の話題や鳥取頭部のニュースで盛り上がるのは、家族の中で自分だけ。

共通の趣味があるとすれば、
「大谷翔平が今日はホームランを打ったかどうか」くらい

“小さい頃から”アートが自分を育ててくれたワケではないのです。

家から一番近い美術館には、
自転車で片道約1時間30分

展示を見に行く日も、
仕事のある日も、

デイサービスから祖母が帰ってくるまでに家に帰って準備をし、

帰ってからは、
見たいわけでもない録画の番組を流すことで祖母の気を紛らわすのがルーティーン。

(それでも、他のことを担当している母のほうが何倍も負担をかけているのだけども)

アフターファイブのような概念は都市伝説。

普段の繋がりをいったん切り離して、
自分から新たに人と関係を作っていく時の緊張感を感じられる機会も気軽に作れず、

いつしかこういうものは、
メチャクチャ準備をして挑むものとなってしまいました。

Uターンして、改めて地元の人々と深く繋がっているかというとそうでもなく、

地域行事の9人制バレーボールには10年ぶりぐらいに出たりはしましたが、

その直後にこの日常が訪れ、
町主催のイベントは2年連続で中止が決定。

録画番組で演歌歌手ばかりを見る日々で、
近頃になってようやく、
テレビに出ている同世代の芸人を知ることはできましたが、

同世代の人と自分との間で、
何か掛け合いをすることも少なかったように思います。

ここで幼少期を過ごした頃は
自分から人に関わりにいくことがなく、

むしろ、無意識レベルで我慢することで、
家族も含め、多くの関係を維持していたことがリズムになっていたことに気づきました。

ワタシ、長男だけど、
炭治郎のようには強くないようです。

自分で決めて、動いて、
物事を決める機会があったとすれば、

夜にコンビニに行って、ゆっくり自分の食べるものを選ぶときか、
作品を作ってみることくらい。

(最近は、展示会そのものを用意することに頭を使うようになり、自分の制作物のことも忘れていました)

地元という、
自分のことをわざわざ自分で言わなくても、
自分の(0〜18歳の頃の)背景はだいたい知っている人が多い
環境の中で、

こうしてわざわざ想いを文字にしてみるのに
何時間も向き合えなかったり、
どこかためらってしまったりしてしまいました。

PCR検査を受けようと思えたのも、
電話で“地元の外”の人と話してみて、
ようやく踏ん切りがついたことでした。

自分でも気づかないほど、
最大火力としても日頃の習慣としても、
自分で動く力が弱っていたことを痛感しています。

地元で過ごした幼少期、
自分から人に関わりにいくことがなく、
今の繋がりを一時的に切り離してみる発想もなかったのは

てっきり全部、自分の性格のせいかと思っていたが、

家族も外に出れなくなっていたこの数日間に、
祖父の遺品、
生前や自分が生まれる前の家の習慣が
思い起こされるものなどを発見していくと、

自分のルーツや、人知れず自分に受け継がれているものなどにも
思いを馳せることができ、

少しずつ、
自分を見る角度を変えることができたのは
この期間ならではでした。

復帰した直後、
“大変だったね”と声をかけてくださる方が多くいましたが、

“それは貴重な体験をしたね”
と声をかけてくださった方もいて、
この日々はまさしく後者でした。

このご時世になって急に耳にするようになった

“コロナに負けるな”
というのは、

罹らないように気をつけることを差すのでも、
なにかを諦めるなということを表すものでもなく、


“自分を見失うな”と言われてるように、
僕は感じました。

読んでいただきありがとうございます。いただいたサポートは、鳥取のアートシーンで活動されている方々を応援する際に使わせていただきます。