見出し画像

【鑑賞日記】村上隆 もののけ 京都展を観に行った

村上隆 もののけ 京都 @京都市京セラ美術館

自分は「村上隆はアーティストではなくプロデューサーである」という認識でした。それは今でも変わっていませんが、なぜそう感じているのかの答えは出ていません。

だからこそ、何度も氏の展覧会に足を運んでいるのかもしれないと思うのです。

さて。村上隆作品にはいつも居心地の悪さを感じています。

氏はサブカルの文脈を用いて作品制作を行っています。しかしそれはサブカル作品としては成立していない。文化盗用とまで強くは言いませんが、外側のひとが表層的に作風だけを真似て描いたような違和感が感じられる。

言い方を変えると、サブカルが培ってきた文脈、文法を理解していないひとが描くが故の居心地の悪さ。あるいは、絵心のない人がワードの図形機能で描いた絵が持つ残念感。
1、2、3、ときて、そのあとに4ではなく四と書いてしまうような文法ミスというか。

具体的な例をあげると語弊がある気がするのでことさらに例示はしませんが、とにかくそういうズレ感を前から感じており、だから、サブカル文脈の作品はどうしても素直に観ることができなかった。

逆に、今回の展示でいえば四神を描いた作品のように氏独自の作風による生き生きとした筆遣いには、無意識下(?)のへんな逡巡はなく、氏の本質、パンツを脱いだ村上隆はこっちなんじゃないかなあと思うのです。

さて。このような作風のズレについて氏は無自覚なんだろうなあ。とこれまで自分は思っていたのですが、ところが今回の展覧会を観て考えが若干変わりました。

実は本人も自覚していて、意図的に居心地の悪さを演出しているのではないでしょうか、と。

今回の展示作品のいくつかにはサブカル的文法が違和感なく表現されている作品が数点展示されていて、ようするに描こうと思えば描けるものだったということです。

ならばなぜこれまでそれをしなかったのか。照れ隠しなのか? あるいは邪気ある挑戦状なのか?

自分はたぶん両方なんじゃないかなあと想像しています。

同時代を過ごしてきた身としてはその屈託さは理解できる。サブカル、ハイカル、そのどちらに対しても、それぞれが持つ閉鎖空間に向けて露悪的なインパクトを与えてみたいという天邪鬼な視点。そういうことなんじゃないかなあ。

ただ、やっぱり自分としては、借りものではない村上隆自身の作風/フィールドでの作品を観たいなあ、と思うのです。

この展覧会自体は長丁場でプログレッシブな企画ということです。なので会期後半の年末にはどのような展開になっているか期待しているのでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?