無口な人はそんなに悪いのか

最近、場面緘黙症の友人のSNSのとある投稿に私が、『昔から、明るくて多くしゃべる人が価値があり、無口で大人しい人に価値が無いという考え方が嫌いです』とコメントしました。
私のコメントに、共感してくれた人もいて、嬉しい気持ちになりました。

場面緘黙症だった学校での生活では、人より話さない私は変な目で見られて、自分が価値が無い存在に感じていたこともありました。小学校4、5年生になり徐々にクラスの大人しめの女子と話せるようになり、『明るくなった、性格が変わった』と言ってくれた人がいましたが、嬉しいとは思いませんでした。緘黙で辛くても誤解されても頑張って生きてきた私は何だったの❓大人しい人ってそんなに悪いの❓そんな気持ちが残りました。

社会人になっても職場の人間関係において、仕事上必要な会話はすることがあっても、基本的に私は雑談が苦手で、暇があっても自分から雑談することはあまり無いです。また、自分のことを根掘り葉掘り聞かれることが嫌いです。自分から、人に対して根掘り葉掘り聞く方でもありません。仕事以外のプライベートの話を、自らしたいならそれは自由だけど、話したくないのに無理に職場の人に話したいとおもいません。

新しい職場の人に馴染むのも、すぐに出来る方ではないけど、10年位前かな?新しく入った職場の人に、『いゆさん、最初は無口だったけど変わった。しゃべるようになった』と言われたことがあります。その人は、悪気があって言ったのではないと思います。しかし、私はしゃべるようになった、明るくなったと言われても、正直嬉しい気持ちにならないのです。

何故なら、いかに多くしゃべることだけに価値があるかのように言われていると感じるからです。褒め言葉なんだろうけど、そう言われるとなんか違うな、と受け取ってしまいがちです。人と必要な会話が出来ることは緘黙症だった頃の自分から見れば望ましい事ですが、もっともっと話さなければいけないのか、これでも頑張って話しているのに精神的に苦痛を感じるのです。

様々な経験をして分かりましたが、無口な自分を全ての人に理解して認めてもらうのは無理だと思います。無口な人は暗い、何を考えているかわからない、信用出来ないとまで思う人もいると思います。しかし、おしゃべりな人もいれば無口な人もいるのは当たり前で、どちらが正しいも間違いも無い、個性なんだと受け入れられるようになりました。人と比べて無口でも良いんじゃないか、悪いわけではない。話すことだけが自分の価値を決めるものではない、そう思っています。

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