伝説の父ちゃん・前

四輪駆動の車が山道を分け行って奥へ奥へと鬱蒼と暗い森の中に呑み込まれていく。

辺りが暗くなるにつれハンチングを被った運転手の男と、助手席の男は警戒心を強め、

特に助手席の男は今握っている散弾銃がいつでも発射できる状態である事を確認するのだった。

運転手の男は野田さん、助手席の男は金井さんといい、二人とも年齢は50代、

地元の猟友会の、腕利きのハンターだった。

二人が地元生まれの地元育ちで、この山が野生の熊の群生地である事を熟知しているし、

熊が人を襲った、とかふもとの畑に甚大な被害をもたらす恐れがある時に猟友会は出動するものである。

だのに、後部座席に座って
「揺れるねえ」と余裕ぶっこいた口調で

北海道の山奥で熊殺しならぬ熊倒しの怪奇現象!カムイコタンの超人オキキリムイの仕業か!?

という見出しの「月刊グウー」という明らかにオカルト愛好者向けのやべえ雑誌を広げて

「小塚幸夫はまことしやかな記事を書く天才だよねえ」とのたまわって

ふん!と鼻で嗤いながら雑誌を座席の後ろの荷台に放り投げた若者の

「この超人の調査をしたい」とゆーわがままで、自分たちはここまで来る破目になったのだ!

半年前から山のふもと近くで熊が倒れているという目撃情報が相次いでいる。

その数8頭。念のために麻酔を打って診察した獣医の診断によるといずれも外傷は無く、

「頭や胸部を強く殴打されて気絶させられている。そう、まるで強い相手に喧嘩で負けてのされたみたいに」
というものであった。

熊同士の喧嘩でも引っ掻きや噛み付きで傷は付くものだ。

「まさか、素手で熊を倒せる超人がこの山に棲むって言うんですか?」

「いるよ」

ハンターのからかうような質問に、青年勝沼悟はきっぱりとした口調で答えた。

植物学者、勝沼悟《かつぬまさとる》は興味の対象があればそこへ行かずにはいられない性分である。

欲しい海藻があればサメのいる海へも潜るし、温泉に生える珍しい苔があれば活火山にも近づく。

サンプルを採るためなら何をしてでもそこへ行く、たとえそこが野生熊の巣窟であっても。

「生物学の研究の真髄はずばりフィールドワーク。現場百篇、足で稼ぐに尽きます」

とこのやけに背が高い27才の若者はまるでテレビドラマに出る刑事みたいな事を言う。

と金井さんはいきなりふらりと自宅にやって来て「護衛として雇いたい」とアタッシュケースごと札束をくれた若者に、逆らえない何にかの力を感じた。

それは札束で頬をひっぱたくような下品な取引をする成金とは違う、別の吸引力…不思議なカリスマ性というべきか。

面白そうな兄ちゃんだ。と魅力を感じたから金井さんは野田さんを誘ってここまで来たのだ。

急にがこん!と音を立てて車は斜め右に傾いて止まった。野田さんは車から降りてしまったパンクだ!と呻いた。

悟が降りて右の後部車輪を見ると、地面に浅く埋められた金属製の罠の、槍の穂先みたいな棘がパンクの原因だった。

「皆さん、僕たち人間は招かれざる客…ここからは徒歩で行きましょう」

愉しげに嗤いながらに銀縁眼鏡をずり上げる悟の横顔を見た野田さんは、

こいつはフィールドワークに夢中になってる内に不慮の事故で殉職するタイプだ。と思った。

三人は木の枝で罠の有無を確かめながらそろそろと歩き、やがて500メートルほど進んだあたりで、

あーちゃちゃちゃちゃちゃー!!!

という雄叫びと共に、薪が銃弾のように三人めがけて飛んで来た。しかし、薪はかすりもせずに三人の間をすり抜けて行く。

こんな芸当が出来るのは「あの人」しかいない!


悟は視線の向こうの切り株に一本の薪を垂直に立てて片足でつま先立ちして精神統一する黒ズボンに白いタンクトップ姿の男に親しげに声をかけた。

「ハンさん!!」

ハンさん、と呼ばれた40男は、親指で自分の鼻先をぴっと弾いて精神統一を解き、

自分に向かって銃口を構えるハンター二人に

「無腰の人間に銃を構えたら、お前らに人権はない」
と不敵な笑いを見せた。ハンター達が怪訝な顔をして互いの銃口を見ると、すでに投げられた小枝で詰まっている。ひゃあっ!とハンターたちは腰を抜かした。

「紹介します…僕の大学院時代の先輩で、伝説のカンフーマスターのハンさんです」

「よろしくな」とハンさんは秋の北海道の山中、タンクトップ一枚で木漏れ日の中笑った。

熊倒しの正体は、伝説の超人オキキリムイではなく、伝説のカンフーマスターだったのか!

「父ちゃん、お客さん?」とハンの山小屋から出て来たのは10歳くらいの利発そうな顔つきをした少年。

「コウくん、大きくなったな」

と悟はハンさんの息子の頭を撫で、プレゼントのタブレットを渡すとコウくんは飛び上がって喜んだ。

武装解除した金井さんと野田さんは、この光景、夢であってくれよ…と切に願ったが無駄なことは無駄であった。

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