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嵯峨野の月#2 親王様の恋

第一章・菜摘

第二話 親王様の恋

「して、その娘は美しいのか?」

と父から婚姻の話を受けて数日もせぬ内に、神野は自分より一歳年上の学友であり悪友の、藤原三守ふじわらのみもりを呼び出していた。

「はあ…確かに我が妻はその娘の姉ですが、義理の兄とはいえ私も顔を見た事がないのです」

と温和な人柄だけが取り柄の藤原南家の五男坊は、馬鹿正直に答えた。

「何しろその娘は父親の遺言で

『成長したら必ず宮中にお仕えさせるのだ、貧しくともみだりに他の家の妻にさせるな』

と言われて実家の橘家の中で隠されるように育って来たのですから」

父親、と言うのは橘奈良麻呂の遺児で美丈夫さでは他に引けを取らなかった橘清友たちばなのきよとものことである。

清友は背が高く美丈夫だったゆえ渤海使ぼっかいしの接待に任ぜられたと聞く。

渤海とは、満洲から朝鮮半島北部、現ロシアの沿海地方にかけて、7世紀末から10世紀初めまで存在した国家である。

渤海人は身の丈大きく顔の彫りが深いためその大使の相手をするのに、倭人、倭人(小さい人という意)と舐められない為に、わざと体格立派な清友を就けたのだろう。


「清友の娘ならば父に似て美しいのだろうか?」

と、神野はまだ見ぬその侍女の容貌に思いを馳せた…

「はあ、舅どのは若くして亡くなったので、お会いした事はありませんが」

とそこで三守は言葉を切って

「確かに我が妻は美人です」

と伏せていた顔をそっと上げて、片目をつぶってみせた。

「うらやましい奴め!」

神野は傍に控えていた三守の肩を掴んで引き寄せて笑った。

三守は、神野が信用できる数少ない人間の一人である。が、官位が低く、従六位下で宮中に出仕できる身分ではない。こうやって学友として呼び寄せるしか会う方法が無いのだ。

まあその娘が入侍して契りを交わせば三守とは姻戚関係になるではないか!

「とにかく楽しみだな」

と神野はひと月後の娘の入侍まで割と機嫌よく過ごした。


そして、娘が宮中に入った夜…

あいにく月の障りがございまして。と遣いの侍女が申し訳なさそうに報告した。

神野は新枕(初夜)をすっぽかされたのである。

ま、まあ急にそういうことも女人にはあるしな…と神野はその夜は珍しく一人寝をした。

平安京の烈しい夏の暑さも和らいできた季節なので、15才の少年神野は深く眠った。

翌日、神野は何とかしてその娘の顔を見ようと新入りの侍女たちが働いている部屋を覗いた。

指導役の侍女から教育を受けてはい…はい、と肯いている侍女を見つけた。あのひとだ!

しかし、娘はわざと髪で顔を隠して自分から見えないようにしているじゃないか。

周りの侍女たちが早速娘を遠巻きに見て「変わり者よね…」と噂している。

「あのですね、親王様がのこのこ覗きにいらっしゃるから目立ちますって!」

と神野の背を叩いたのが、女童の明鏡であった。

明鏡は、口は悪いが機転が利いて、その小ささ愛くるしさから誰の懐にでも小鳥のように飛び込むことが出来る。

神野は密偵役にと、娘の所に明鏡を遣わすことにした。

その日の夕方に、明鏡は少し硬い表情で神野の所に報告に来た。

「あたし、化粧しなくともあんなに美しいお方は初めて見ましたわ…」

と女童はしばらくぼうっと視線を泳がせた。

やはり、期待以上だったか!と神野は両手の拳を顔の前でぎゅっと握った。

そんな神野を前に明鏡はきりっと表情を変えて、主人に釘を刺す。

「でも、あの女人は『難物』ですわよ。いつも新参の侍女にやるように、急に押し倒さないで下さいね」

「人聞きの悪いことを言うな!」

でも本当のことなので、神野はぐうっと黙って報告の続きを促した。

「お名前は嘉智子さまと言うのですけれど…
自分は父の遺言ひとつで嫌々宮中に来た。本音を言うと出家して尼になりたかった。と仰るのです!」

平安初期は徒に増えた僧や尼僧を統率するための僧尼令が厳しかったので、貴人の娘が簡単に我が髪を切って出家するのは困難な事であった。

尼になるだと?まだ花の盛りの十五の娘に出家願望があるなんて…

やれやれ、相当の世間知らずか、宮中に来た身を儚んでか。

「いつも通りに手を付けたらいけないひとなんだな」

こうなれば様子を見て機を探るか…と我慢してひと月半後、神野は父帝の鷹狩に随行した折、

一本の菊の花を見つけて…ある作戦を思いついた。いま自分は鷹狩の装束に「変装」してるではないか!

こうして神野は随員の男に化けて丁度外で衣を干していた嘉智子に花を渡し、正攻法で名を問うて顔を見ることに成功した。

「…名は?」と問われて自分を見上げた娘の顔は…なんて鼻梁涼やかで美しいのだろう。


「まるで万葉の時代の名乗り(プロポーズ)ではないか!」

と近くの樹の陰に隠れた三守と明鏡は、笑いをこらえるのに必死だった。

「これで相問歌でも交わせば完璧なのでしょうけど…ああっ!親王様が振られてしまいましたわ」

信じられない、と三守は両手で頭を抑えた。親王様は今まで誰にも振られたことがないのに。

我が義妹がこんなに強情な女人とは!このままの状態を長引かせている訳にはいかないな。

三守は温厚篤実な表面の内に、果敢な決断力と行動力を隠し持っている男だった。

「明鏡、ひとつ相談があるんだがね」と義妹がいちばん無心になっているときはいつか?と尋ねた。

「はい、毎夕ご実家から持ち込まれた小さな仏像に拝んでいらっしゃるときでございます」

「そうか」

とひとつうなずくと三守は「外から侍女部屋を覗けるところはあるか?」と明鏡に聞くと「三守さまも悪いひと」と言い返された。

そして、振られたばかりで落ち込む神野を明鏡に手引きさせて、橙色の夕陽に照らされて仏に拝む嘉智子の横顔を窓ごしに覗かせた。


う、美しい…このようなひとをむざむざ尼にしてたまるか!と神野の心に生まれて初めて強い恋情が起こったのである。

それから神野は陰陽師を呼んでいちばん近い吉日を選ばせ、その吉日の夜、今日手折った野菊の花を持って嘉智子の寝所の近くにひそんでいた。

待てよ、自分は親王の身であるぞ。このように下々の男みたいに夜這いをかけるとは…

菊の花を眺めながら、神野は自分のやっていることや今までの三か月間の執心が急におかしくなった。

(寝付きました…お入りになるなら今です)と背後で明鏡の声がした。

だが、どうしようもなく私はあのひとが欲しいのだ。

神野は音を立てずに嘉智子の寝所に入り、新枕を「決行」した。


それから数日経ってからの昼おそく、

ずいぶん風が冷たくなって来たこと。と思いながら庭に面する御所の廊下を歩いていると、

「嘉智子さん、お入りなさいな」と侍女の控室の戸がからり、と開いて、先輩の侍女のひとりが中に招き入れてくれた。

室内では火鉢を囲んだ侍女四、五人が干した果物や木の実をつまみながら暖を取って休憩している。

中には鏡を前に髪を垂らして結い直している侍女もいた。

侍女たちは今は薄化粧をして眉間に紅の花模様、口紅の両側に緑点を入れた嘉智子の顔を見て、一様にほっとした。

「宮中のつとめには慣れましたか?」

空いた場所に座らせてもらって指導役の侍女にはい、と返事をすると、

「実は私達、とても心配していましたのよ。入りたての頃のあなたはとても内気というか、暗かったから…」

こほん、と空咳をしながら指導係は思い切って本音を切り出した。

「橘清友の娘。まずは、親王様とのご結婚おめでとうございます。私たち侍女も本当は胸を撫でおろしている次第なのよ」

「さあ、温まりなさいな」と他の侍女が白湯を入れた椀と干しなつめを持って嘉智子に勧めた。

「不本意ながら宮中に来た女人は、あなただけではありません。
貴人の妻女までが宮中に入っておつとめしなければならないこの御時世です。
私たちも実家の暮らしのために宮仕えに入った女たちばかりですわ」

指導係の言葉が終わるのを待って、嘉智子はなつめをかじって白湯を口に含んだ。

宮中に来てから気づいたことがある。子供の頃からずっと抱えていた、お腹が空いた、という感覚が無くなったのだ。

「うちの親王さまは特に女人にはお優しいかたなのよ、嘉智子さんは運が良かったのよ」

「ほーんと、実家の父や兄たちとは大違い。ここに来るまでは殴るか蹴るのが男だと思っていたわ」

「お相手した翌日は必ず文や贈り物を届けて下さるし、ご正妻の内親王さまもしっと深い方ではないし、ねー」

え…?もしかしてここの侍女のかたがたって…

と嘉智子の心中に疑念が生じてきた時、高津内親王づきの侍女から「橘清友の娘、付いてくるように」と呼び出しがかかった。


初めて会う神野親王の正妻、高津内親王は、やはり高貴の御生まれだけあって凛とした美少女であった。

「そんなに畏まらないで」

と優しく声をかけて嘉智子を傍ににじり寄らせる。

高津様の母のご実家は武官の坂上家なので、内親王さまは気取ったところが無い。
と前もって侍女たちが教えてくれた。

「親王様と晴れて夫婦になったようで…私たちは同じ夫を持つ身、これからも仲良くしましょう」

14歳ながらも皇女としての「余裕」さえ感じさせる発言に嘉智子はいたく感じ入るところがあった。

でも、と勝気そうな眉間を寄せる高津の顔を嘉智子は見上げる。

「あなたが新枕を拒んでいる間に、お兄さまはお手付きの女人を二人増やしてしまいました…

橘嘉智子、ここの侍女たちはね、人妻以外ほとんどお兄さまのお手付きなのです。


私が把握している限り、お手付きはあなたで十人目よ…

お兄さまは、高僧の読経でも治らない『御病気』なのです!」

と高津は吐き棄てるように言った。

「まったくもう、いちいち悋気(嫉妬心)起こしていたら神野親王の正妻なんてやってられないわ!」

と呟いて高津は偏頭痛でも起こしたのだろうか、こめかみを抑えて脇息に身をもたれてしまった。

「もう下がっていい」と言われて嘉智子は高津の居室を辞し、さっきの侍女たちの会話を思いだしていた。

おそらくあそこにいたほとんどの侍女たちが親王さまお手付きなのだろう。

わたくしは…なんという御方と夫婦になってしまったんでしょう!

橘嘉智子もこの時、親王さまのお手付きの侍女の一人に過ぎなかった…。


帳張の外で夫が侍女に服を着せられている衣擦れの音で、高津はせっかくの眠りから覚めた。

額と裸の上半身には大粒の汗が浮いていて、朝まで続いた房事の余韻でまだ息切れしている。

「なあ高津よ」

と夫、神野がこちらを振り返って「たまには一緒に朝餉しないか?」

と声を掛けてくるのを「今は…寝かせて下さい」と突っぱねた。

自分の寝乱れた姿を見られて、また朝から事に及ばれてはたまらない!

「また来る」

「…三日置いてから来てください」

このやり取りが、二年前に父桓武帝の言い付けで結婚した夫婦の慣例になっていた。

そうか、と少し残念そうに声を落として神野が部屋を出て行くのを帳の隙間から確かめると、侍女に

「お水と、替えの衣を持ってきて頂戴…」とだけ言い付けるとそのまま強烈な眠気と疲労感に襲われ、まったく、お兄さまの「お相手」をいつもつとめては体が持たないわ!

とまどろみの中で毒づき、昼まで眠ってしまった。

心身健やかに育てるよう。

という父帝の教育方針で神野は文武とも英才教育を受け、平安初期の貴人の男は滅多に食べない強飯こわいい(米を蒸したもの)をがつがつ食べる。

「強くなるためにはよく噛むことです」と幼少期からの武道の師匠、坂上田村麻呂が言い付けた食習慣だった。

おかげで、兄弟のどの皇子よりも健康優良児に育ったが…

狩りの季節が終わり、冬が近くなってもうすぐ16歳になる少年が宮中に閉じ込められがちになると、

その「健康さ」が女人に向かうのは、まあ無理もない話。

「ねえ、最近親王さまは夜いらっしゃる?」

と神野お気に入りの侍女、貴命きみょうがもう一人のお気に入り侍女、高子に夕餉の前の休憩中尋ねた。

いつもなら三日も開けず共寝していた親王さまが、ここ七日間音沙汰もない。

さては、多治比高子《たじひたかこ》のもとに通っているな、とも思ったが、

「いえ、全然。お蔭で休めてますけどね」と高子は細い目をさらに細めて笑って正直に答えた。

二人とも、将来神野が即位した時の后候補として貴命は実家の百済王家くだらのこにしきけから、

高子は多治比家から宮中に送り込まれた娘である。実家の出世のために神野のお手付きになった、嘉智子と似たような境遇だった。

「あの親王さまが女人なしで寝られる訳がない!」と二人は他のお手付き侍女に問いただしてみたが、

誰も「最近いらっしゃっていません」と首を振るばかり。

あの、と古参で人妻なので神野の手に掛かってない侍女がひとり、不吉な秘事を明かすように口を開いた。

「数日前からのことでございます…最近親王さまお気に入りの、橘家の娘の床から房事の時の声が」

とそこで言葉を切り「しかも、昼日中からでございます…恥ずかしい!」と袖で口を覆ってしまった。

まさか…まさか、と侍女たちは嘉智子が連日「あの」親王さまのお相手をつとめてらっしゃるのか!?

こ、殺されてしまうわ!!

自分の身に置き換えて想像し、侍女たちが背筋を凍らせたのは言うまでもない。

貴命と高子は早速事の仔細を、高津内親王に報告した。

「政略結婚したばかりの娘になんてことを…嘉智子を休ませないと」

とじんわり痛むこめかみを抑えて、高津は「そうだ、あの娘なら止められるかも」と明鏡を呼ぶよう命じた。

間もなく、嘉智子の寝所を見に行っていた侍女がやって来て、

「すでに明鏡と親王さまが押し問答しております」と神妙な顔で報告した。

「行動の早い子」と言って高津は頬にえくぼを浮かべもし明鏡が失敗したら、貴命と高子が「体を張って」止めるように命じた。


さて、嘉智子の寝所。帳張の中で衣を頭から被って、奥歯をかちかち言わせて本気で震えているのは、

もう四連日、昼も夜も神野の「お相手」をつとめてあまり寝かせてもらえず疲労困憊の嘉智子である。

意識も朦朧として口の中で読経を唱えている。

「どうして入れてもらえないのだ!?」と駄々をこねる神野と、

「もう休ませてあげて下さい!御寵愛のひとを、殺す気ですか?」

と小さい体に両手を広げて嘉智子をかばう明鏡が、本気で怒っていた。

なれど、なれど…と帳に手を掛けようとする神野に「そんなに女体をお求めなら、あたしがお相手しましょうか?」

と明鏡が低い声でぼそっと言った。

「馬鹿いえ…!おまえみたいな子供に何もできる訳ないじゃないかっ」

「だったら、お下がりください」

明鏡の迫力に気圧された神野にとどめをさしたのは、帳の間から出て来た嘉智子の白い手から「どうぞ…親王様に」と渡された文だった。


言繁ことしげししばしは立てれ宵の間におけらむ露はいでてはらはむ

(人の噂が煩わしく存じます。しばらく曹司に入らず外でお立ちになってお待ち下さい。宵の間に御衣に置いた露は、私が後ほど出てお払い致しましょう)

嘉智子の和歌を読んだ神野はしばらく黙り込んで、

「数日は、来ぬ。安心せよ」と言い残して両手に文を握り締めて去って行った。

(嘉智子さま、嘉智子さま、ご安心ください)と明鏡が帳の外から手を入れて嘉智子の背中を撫でる。しばらくしてから嘉智子はやっと帳張から顔を出して、

床に多数の水滴が落ちているのを見つけた。

「子供のように泣きじゃくっておいででしたよ…まさか本当に『露』を落とすとはね」

嘉智子は微苦笑みたいなものを浮かべて「すこし、休みます」と言ったきりそのまま熟睡した。

後記、嵯峨天皇と檀林皇后の結婚、sideB神野親王目線。
橘嘉智子の歌のあられもない解釈。

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