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嵯峨野の月#110 落花宴

凌雲8

落花宴

弘仁六年四月二十二日(815年6月3日)

嵯峨帝が琵琶湖西岸の韓崎(唐崎)へ行幸した帰途のことである。

蒸した茶葉を臼で搗いて固めて作られる固形茶である団茶を鍋肌に泡が立つ頃合いを見計らって目の前の僧侶が入れて煎じる。

梵釈寺(滋賀県大津市、今は廃院)にて大僧都永忠自らが煎じて献じた茶を口にした嵯峨帝は、

「これは…なんと香ばしくほんのり甘い飲み物なのか!」

と感嘆の声を上げ香りとともに小さな椀の一杯目を喫してしまうととほう、ため息を付き、がまさに甘露であった」と久方ぶりに気を抜いた様子で永忠の煎茶の腕を褒め称えた。

ありがたき幸せ、とこの年七十二の永忠は帽子の下で目を伏せて畏まるとおもむろに顔を上げ、

「そうです、茶を喫してお寛ぎになられている『いま』。それこそが人生なのです」

と皺くちゃの顔をほころばせてほとんど歯の抜けた口元を広げて見せた。

「まあ人生の大半を唐で過ごした年寄りの話をお聞きくださいませ。

我が遣唐使として入唐したのは四十年前、その頃の長安は建物は家屋も寺も宮殿も安禄山の乱の災禍により一旦破壊しつくされたものを再建しようとする途上で人々はまだ下を向いて暮らしていました。

ところがです、都の再建が進むにつれて街の人々の目線が上がって行くのです。十年、二十年と経つにつれかつては破壊と略奪と虐殺の憂き目に遭った民たちの子世代はまるでそんなことなど無かったかのように平穏無事な暮らしを甘受するのです。

大勢の人間が行きかう都の路上で我はふと悟りました。

何千年経っても人間は変わらない、記録があっても本当の意味で人は歴史から学ぼうとしないのだ、と」

鍋の中で小さな泡がふつつ、と沸き立ち柄杓を持った永忠は二煎目の茶をすくって器に入れて鍋を挟んで向かい合う若き帝に献じた…


まずは茶の琥珀色を楽しんでからゆっくりと啜り、嵯峨帝は口中で茶の味を満喫なさる。

「うん、香りはあまりしないが茶の味が濃く出ている。旨いものだな」

そして空になった器の底に目を落としてから

「では今生きている我々が昔よりはいい時代になった、と思うのはどうしてだろうか?」

と改めて三十年の留学を終えて今は僧としての最高位にいる老僧に問うた。

「今が昔より変わった、と思うのは暮らし方が変わっただけです。
世の移り変わりに合わせて当世風の暮らしを満喫しているから自分たちは新しい人間になったのだ、と勘違いして前の世代の言葉を忘れ過去を捨て去ってしまうからです」

確かに史書からは過去にあった出来事の内容と文面は読むし記憶もするが、

それを書き記した過去の人間の生々しい苦しみまではあまり読み取ろうとしなかったな。

と嵯峨帝は今までの過去の学び方を内心恥じ入っておられた。

「留学中の暮らしは書を買うため食うものも我慢して歯を十本失いました。

人は何十年か経てば死ぬし存在を忘れられる、そして暴力で全てを奪ういくさの過ちが大陸では繰り返される。

苦に満ちた人生の中でそんな手段を取らないために言葉や文字や教えというものがあるのに、ねえ?」

「お前の中にあるのは人間への諦めか」

「いいえ、留学期間を終えて空海という若き僧に部屋を明け渡した時、彼の明るさ素直さにそれまでの心の黒き霧が晴れました。ああ、これも人生なのだな、と」

成程ね、とそこで嵯峨帝は屈託なくお笑いになり「苦に満ちた現世の中でごくまれに啜った甘露こそ人生か…ありがとう、朕はお前の茶の味を絶対忘れない」

畏れ多い事です、と鍋の湯気の中で永忠は今度は本心から照れて笑った。

これがこの国で最初に行われた茶事の記録である。

大僧都永忠は翌年の弘仁七年四月五日(816年5月5日)にこの世を去った。


昔、とある貴人がその生を終えようとしていた。

その者は貴族の名門、藤原北家に生まれ何不自由無く育ち、妹が後宮に召されたのを機に桓武帝に重用されて順調に出世を重ねた。

齢五十を前に遣唐大使に任ぜられ空海、橘逸勢らを連れて唐入りし、最澄、永忠を連れて日本に帰るという大役を果たし、三位の公卿に列せられた。

周りの者から見ればその男の人生は羨むべき身分に生まれてたとえ親友の妻薬子と通じても政変が起こっても暴走する平城帝を諌めるなど負ける側に居ても上手く立ち回って決して失脚する事が無かった。

という所に藤原葛野麻呂ふじわらのかどのまろの現状を読む冷静さと政治家としての凄みが伺い知れる。

平城朝においては時の帝に年貢を玄米で納める、という決まりを悪用して農民が収穫した稲を全て玄米にして奪い取っていた地方国司の不正を訴え、雑用稲や公廨稲を玄米として収納することを禁止すべし、と奏上して農民が食べる分を確保する。という民のためにも働いた男であった。

弘仁九年冬、平安京には粉雪が舞っていた。

かつては四十過ぎても白髪一本皺ひとつ無い彼の瑞々しい美貌に宮中の女官たちが色めきたったものだがそれは二十年以上も昔。

病の身を妻子たちに囲まれた葛野麻呂は白くなった髪をきっちりと結い、帽子まで被って皺の寄った両頬に笑みを浮かべながら、

「お前らが困らぬように出来る相続は全て行った。心配する事は無い」

と北家の頭領としての最後の務めを果たした事を伝えた。

それから二十五歳年下の正妻、和気広子に「こんなじじによく連れ添ってくれたね」と言ったところでわざと悲嘆に陥らないよう周りから小さな笑いが起きた。

いいえ、と広子は首を振り、
「殿以上に女人に優しい殿方を私は知りません。縁付けて下さった父清麻呂に心から感謝しています」
と彼との間に生まれた息子で今年九歳の氏宗を抱き寄せて「この子は立派に育てますからどうか安心なさいませ」ときっぱり言いきった。

ああ、結婚した時から思っていたが。
この人のはらの据わりようは舅の和気清麻呂どのゆずりなのだな。

と今さらながらに思いなんだか可笑しくなった。次に跡取りと定めた七男の常嗣つねつぐに、

「この家の事は頼んだぞ、預かっている源氏の若さま方をお支えするように」

と遺言し、常嗣は涙を袖で拭いてからは!と顔を上げ、

「必ずや父上のお言い付けお守り致します」と十九歳の若者らしいはきはきした声で答えた。

それから側室たち、他九人の息子たち、そして乳兄弟として一緒に育ち家司けいし(執事)として家族多きこの家を支えてくれた多治比志摩麻呂たじひのしままろに向かって「本当に世話になった」と最後の力を振り絞って彼の長年の務めを労った。

そんな…私のような身分低き者にまで…最後の労いの言葉に彼は泣きながら頭を垂れるばかりだった。

息をするのも面倒だし、天井が遠くなったな。
昏睡状態に入った葛野麻呂の脳裏に幼い頃からの思い出が次々と夢になって現れる。

厳しくも優しい父だった小黒麻呂の教育のお陰で我は慢心を抱かずに済んだ。

十を過ぎたばかりの頃、年下の田村麻呂に完膚なきまでに打ち据えられた苦い思い出。

初めての地方任官の陸奥で歴代の国司が農民たちから搾取する地方政治の汚泥を知った。

まつりごとに失望し始めた頃に母の死で都に帰り、たまたま通りかかった邸の庭の蓮池のほとりに立っていた美しい女人に心奪われた。

それまで与えられてばかりだった人生で初めて人を欲する気持ちが湧いたのだ。

夏の事だったので芙蓉の花と求愛の文を送り、返事の文を貰った夜に明慶が部屋に招き入れてくれ、密かに夫婦になった。

任地の陸奥に帰るまでの七日間で明慶は明鏡を授かり、再開した時には明鏡は三歳になっていた。

私が人生の中で最も強く望みながら叶えられなかったのは、それは母方の祖母である明信に拐かされた明鏡をもう一度この手に抱き締めること。

だが、それももう叶わなくていいのだ。

なぜなら、

目覚めた葛野麻呂の視線の先に座っているのは袖で涙を拭いながら「いかないで、中納言…」と自分を見ている明鏡の息子、源信みなもとのまことの姿。

心配要りませんよ、本当の祖父と名乗れなくともこのじじあなたの笛を聴きに参りますよ。

枕の上で顔だけ横に向けて信の姿を視界に留めてからふっ、と片頬に笑いを浮かべたまま葛野麻呂は息を引き取った。

脈を取った薬師が首を振った時、家司の志摩麻呂の慟哭が邸内に響き渡る。

弘仁九年十一月十日(818年12月15日)藤原葛野麻呂薨去。享年六十四。最終官位は正三位中納言。

実の父の死にひとり隠れて泣いている明鏡を嵯峨帝は真っ先に見つけ出され、
「今は憚らなくていい」と仰有ったので明鏡は帝の胸に顔を押し付けて遠慮なく泣いた。

ひとしきり泣いて気持ちが落ち着くと「もう、どうして帝はいつも私が泣いているのを見つけておしまいになるのですか!?」と照れて文句を言い出す。帝はそんな明鏡がいじらしくて仕方なかった。

「宮中で辛いことがあるとお前はいつも他の女官が近寄らない書庫の隅で泣く。朕は何度かそれを見てしまった」

言われた途端明鏡は赤くなり袖で顔を隠す。嵯峨帝は明鏡を抱き寄せ二人で壁にもたれてそのまま床座した。

こうやって二人きりで書庫に座るのはまだ神野さまと呼ばれていた帝と万葉の和歌や唐の漢詩をこっそり読んでいた子供の時以来だ。

あの頃は文章を読むことで万葉びとを思い、他国の仙境に心を遊ばせた。
あの頃は宮中から出られなくても心は小鳥のように自由だった。

「なんというか藤原葛野麻呂という男はお前の忠告通り忠勤の下に強い自我を宿した男ではあった、が」

そこで言葉を切りしばし黙り込んでおられた帝が諳じた漢詩は


過半青春何所催    
和風數重百花開
芳菲歇盡無由駐    
爰唱文雄賞宴來
見取花光林表出   
造化寧假丹青筆

過半の青春 何の催ほす所ぞ
和風 しばしばしきりて 百花 開く。
芳菲ほうひ歇盡けつじんするに
駐むるに由し無し
ここに文雄をよばひて
賞宴に来たる

見取す 花光 林表に出づることを、
造化 なにぞ仮らん丹靑たんせいの筆

春も半ばを過ぎた頃、何がそうさせるのか。
やわらかな風がしきりに吹いて、
あまたの花がものにせかされるように咲くことである。
芳しい花の香りは失せようとして、止めることはできない。

そこで、文雅の友に呼びかけて、花を愛でるこの宴にやって来たのである。

花園に入ると、輝く花の光が林の外にまで溢れているのがはっきりとわかる。
造化の神の造りなしたもうこの美しさは、
人工の赤青の絵の具の筆を借りる必要があろうか…

それは六年前の弘仁三年春(812年3月28日)
神泉苑で執り行われた花見の節会せちえで嵯峨帝が桜の花を愛でて詠まれた漢詩であった。

「この詩を皆が唱和してくれて葛野麻呂が舞を献じてくれた。桜の花びらが舞い落ちるその背中がな…

到底言葉に出来ない彼の者の深い人生を物語っていたのだ。

明鏡、お前の父は行ってきた善事も悪事も含めて人ひとりの中に人間の全てが詰まっている事を教えてくれた」

日本最初の花見とも言われるその宴で一緒に詩を唱和してくれた中納言、巨勢野足こせののたりも二年前にこの世を去り、そして葛野麻呂が逝き、
空海もふた月前に高野山に送り出してもう自分のそばには居ない。

書庫の戸を開けて廊下に出た嵯峨帝と明鏡は空から降る羽毛のような白いものを眺めて「積もるでしょうか」「こんなに軽くては積もらないだろうな」と他愛の無い話をした。

嵯峨帝三十三歳、明鏡三十歳。

青春を終えようとしている二人の心の中で桜は散っていても目の前はすでに、雪。

後記
人間は、千年経っても変わらない。と実感する今日この頃。











































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