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始元世界と正反宇宙 時間空間       万象万物を表現するカムヒビキ(1)                    【直観物理と相似象 その 13】

「相似象」第4号では、「万物万象を表現するカムヒビキ」と題して、以下の内容を扱っています。

  1.  始元世界と正反宇宙

  2.  時間空間の性質

  3.  恒星空間の有様の表現

  4.  天体の有様の表現

  5.  宇宙の力が、生命の原動力であることの表現

  6.  宇宙の生命が、電氣を生む

  7.  電磁波の物理

  8.  電磁波が、物質や生命質をつくる、という物理

  9.  物質の構成

  10.  反物質の存在

  11.  質量の物理

  12.  物質の結晶の物理

  13.  「生氣増幅電流」のサトリ

  14.  元素の種類とその構成

  15.  個体発光の物理

  16.  「心の現象」の物理

 いずれも、普遍なる宇宙の物理法則を記述する直観物理として、重要な内容を含んでいると思われますので、漏らすことなく、列挙して行こうと思います。以上の16の項目について、このブログの記事では、「カタカムナ人の直観物理と相似象」の(13)から(18)までに分割して、掲載していますが、ほとんどは、「相似象」第4号の内容を参考にしたものです。


1.始元世界と正反宇宙

 アマカムナ アマカムヒビキ
   ア アヤ アカ ア ア アナ カシコ アオニヤシ
   アマヒ アキツネ ミナカヌシ
   タカ カム ムスビ アマハヤミ


現代語訳(楢崎皐月氏による)
 「宇宙の現象には、正(アカ)と反(アヤ)の相反する面があり、その背後には、アマがある。アマを生むアマのヒのアナは、畏いものである(奇妙さが多い)。アマヒは、万象万物を発現する根源で、宇宙に、カタチの見えるモノ(タカ)や、カタチの見えぬモノ(カム)を生産し、自身は、その正・反のあらゆる現象世界の中(ミナカ)に、ヌシとして潜在している。 また、アマハヤミに伴って、アマのY方向(カミ)と、正反の現象世界に、自由に出没しているのである。」

 <ア アヤ アカ>において、
 <ア>は「全く見えない。<アヤ>は「ハッキリ見えない。」<アカ>は、「明らかに見える。」ということであって、<ア アヤ アカ>とは、始元の世界(ア)と、宇宙の現象界に表れた、正と反<アカとアヤ>の存在を表現したヒビキです。
 <ア>とは、すべての始元、アヤにもアカにも変遷する、背後のアマを指すヒビキです。
 <アカ>は、「明らかに見える。」カタチに現われたモノ。ハッキリと目に見えている現象を指しています。
 <アヤ>は現象界に存在するモノですが、「ハッキリ見えない」、よく判らない、捉えがたいモノを指します。(アヤシイ、アヤマチ等)
 現代科学で「反物質」という言葉を使っていますが、カタカムナ人の意味する「反」の要素の扱いは、全く別の角度からのものです。彼らは、すべて物には正(アカ)と反(アヤ)があると直感していました。イカツ(電氣粒子)にも正(サヌキ=男性)、反(アワ=女性)があり、宇宙、地球にも、また、精神や社会の現象にも、すべて相似象として正・反(男女、陰陽、吉凶等)があり、そして正・反の背後には、目に見えぬ「潜象」(カム)の<アマ>があると言うのが、カタカムナ人のサトリで、彼らは宇宙の万象の正反性とその根拠をズバリと掴んでいました。
 <ア>は、世界のどのような民族も共通に発する感嘆、安堵の音であって、さまざまな感情を表します。(カタカムナ由来の日本語で言うと、オドロキ、オソレ、ナゲキ、カナシミ、アハレミ、アマエ、アコガレ、ヨロコビ、オチツキ、ウナヅキ、イノリ等の、あらゆる感情。)人間の心の、もっとも根源的、感情的な響きを示していて、日本語にとっては、アらゆるモノの始元の母体(アマ)の<ア>であり、この語感には、最も根元的な民族感情を携えています。

 <アマ>には二つの意味があり、それは、容れ物としての「全宇宙」と、中身としての「アマ始元量」です。したがって、<アマ>と云う言葉で呼ばれる「天」「海」「雨」「女」等は、皆<アマ>の思念を持ちます。<アマ>は、限りなく「甘い」ものであり、心から「甘え」たくなるのは、自分たちの生みの親であるからですが、図に乗って、むさぼったり、背いたりすれば、しっぺ返しが来るでしょう。日本人の民族的な連帯感では、<アマ>は、皆の共通の大きな「オヤ」として、「アリガタイ」と感じる所にあります。それだけでなく、日本語の起源は、「アマ」「カミ」等の言葉を造り出した、カタカムナ人の物理的な世界観が主体となっていて、短い言葉の中に、多くの意味の集積を持っている言語は、日本語の他に類を見ないと言えます。

 日本語の一音一音は、、天然自然のヒビキを感受した、カタカムナ人の直観物理から、出発しているので、そのような基礎思念を潜めた一音一音を、二つ三つと繋いで成り立つ、日本語の特質は、自ずから、天然自然の備え持つ特性の、相似象が現れる、と言うところにあります。以下にその例を示します。

 <ア>という音は、アカ、アヤという「正反」の、相反する、明と暗という逆の意味を持つ現象になって行き、アイマイ、アヤフヤ、アヤマリ、アク等の歪の意味にも、また、アマ、アマネク、アオ、アキラカ、アラハレ、アマナ、アメ、アナ、アワ、アミ、アマリ、アマイ、アブク、アウ、アエ、アタフ、アム等々と展開し、変遷して行きます。

 また、<ムカヒ>と言う言葉にしても、敵対して抵抗する向ヒと、親しみ迎える向ヒという、正反逆の意味が出ます。
 そして、<ナリ>と言う言葉にしても、天然自然の仕業(ナリ)が、本来性(ナリ)と成り(ナリ)、すなわち、ナリタチ(性質)、ナリフリ、ナリユキ、ナリハヒ(榮)、ヒトトナリ(為)等の意味にも通じるようになります。
 このように、一音一音の基底の思念に沿いつつ、自由に展開し、変遷して行くその様相は、さながら、天然自然の特性であるところの、正と反の対称性およびその歪や、互換重合性、微分統合性、極限循環性等の、相似象を示しているのです。
 これは、日本語に限定される問題ではなく、現象に現われたものの根源(カミ)を考える場合に、必ずゆきつく方向です。
 こうした起源を論ずるにあたり、注意すべきは、二次三次の原因を、根本的な本質のように思い違えることによって、生じる混乱です。根源的本質論と、そこから変遷して生じた、二次三次の現象論とを見抜く直感が、何よりも必要となります。
 直観性能の衰えた後代人が、漢字に置き換えた、古事記等の晦渋な伝承から、カタカムナ人の本来のヒビキを聴きとるのはムリです。私達は、自分たちの「カン」を正して、カタカムナ人の発生の音に、直に感応するしかありません。

 <ア ア アナ カシコ>は、直訳すると、「見えない見えない。暗い暗い。アナは畏い(孔は奇妙だ)。」ということで、「アナは目に見えぬ、奇妙さ量(ストレンジネス)の多い世界だ。」と言う意味を表現したヒビキです。カシコは、威儀を正して尊重する気持ちを表し、カシコミ、カシコネ等と展開します。

 <アオニヤシ>は、「アオにヤのシメシがある」ということで、「目に見えぬアマの方向は、宇宙に現象する、すべての正、反のモノ(アカアヤ)の背後に示されている」と言う意味になります。オとは、六方の立方体に発現すると言うヒビキ、ヤはモノの極限、根元の意、シは示しの意です。

 ●Y方向 すべての物質や生命質の背後に存在し、すべての現象を発生させているモノ、それがアマの元である、というのがカタカムナ人の直観です。そして、アマの存在する方向を指して、「Y方向」と言っています。それは、縦横高さのある三次元のどこかの方向ではなく、三次元を超えた、より高い次元への方向です。現代科学で言う「反物質」は、「地球重力に反するマイナスの質量を持ち、地球上に存在する時間が極めて短い(億分の1秒)」物質ですが、その発生、消滅がどの方向に生じるかはまだ不明であり、そのような物質は、「地球上には存在し得ない」とされています。しかし、カタカムナ人は、反物質とは、そのように、ものが崩壊還元する時に出るだけでなく、結合の状態(正の物質)の中にも存在し、「反」の要素、すなわち奇妙さ量の大小は、アマナ量の多寡によることを、直観していました。
 <アナ>は、目に見えぬ始元世界から、アマの分身(アマナ)や、正反の電氣(イカツ)を生み出し、正反の物質(アカアヤ)を発生し、また、それらすべてが、崩壊してそこに還元されて行く、目に見えない、暗くて深い、底なしのアナ(カム)を意味していますが、アナは、相似象的に、現象界にも存在する丸いアナであり、女性器も、生命(イノチ)を生むアナに通じています。渦潮が渦巻いて、吸い込まれて行くのもアナです。アナはまた、感嘆詞的に、「アナニヤシ(古事記)」「アナトウト(祝詞)」等として使われています。
 「アマーカム」を指す「Y方向」方向を体覚的に示すのに、「相似象」第4号の中では、「母親が赤んぼに乳を吸われるときに感じる方向」という形で記述されています。それは、母体の奥底から「アマのアナ」に通じるフシギな感覚であることを、母親なら実感できる、としています。同じような感覚と思われますが、氣功の訓練をしている時に、身体の中心から氣が出て、それが全身に巡るイメージをしている時の、身体の中心方向としてY方向を感じることがあります。氣はあたかも別次元から流れてきて、身体の中心のアナから湧き出てくるような感覚です。

 ●ノリト 後世の神道が、「カシコミカシコミマウス」と一種独特の言い回しで祝詞を唱えてきたのは、漢語や外来語の影響下でも、神のカミ(起源)に対する時だけは、一音一音をユックリ唱えねばならぬ、と言う気持ちが、何となく、古いカタカムナの面影を残しているようです。
 古いノリトでは、「マウス」は「申す」ではありません。「間宇須」とあてていて、間(アマのマ)宇(宇宙)須(スベカラク、必ず)、すなわち、「アマのカミ(起源)に、必ず帰すものである」との意です。

 <アマヒ アキツネ>とは、「アマヒが個々に現われる現象(アキツ)の根源(ネ)である」と言う意味です。アマヒは、マガタマの表象物にあるように、すべてのモノを発生するモトの、アマ始元量を指すと共に、そのアマのカミ(カム)を指向する思念です。
 すなわち、このヒビキは、アマ始元量こそが、タキオン、反物質、原子核等の、科学では未知の領域を説明する上に、重要な物理の元であることを示唆する、重要なヒビキです。

 <ミナカヌシ>は、「(アマヒのように、)すべてのモノを発生し、正反の現象世界の中(ミナカ)に、ヌシとして存在している」という意味です。フトヒもこのようなアマヒです。また、アマナはその相似象で、アメが集合凝縮して密度を増した、核的存在であり、古来、生命、心、霊魂とかの心霊現象の神秘の主体であり、現代科学の「奇妙さ量」の主役も、このアマナが演じています。原子核はアマナの相似象であり、物質の時間空間量、質量を支配する主体でもあります。ミナカヌシは、後代神話の神の名として伝わっていますが、起源はこのような意味のヒビキであったのです。

 <ヌシ>は「目に見えぬ潜象(ヌ)として示されたモノ(シ)」の意です。つまり、一つのマトマリを構成する中心核的な存在であるが、それ自体は、表面には現れず、常に、カゲにあって奉仕するモノです。ヌシが「主人」の意になった元は、ここから出ています。カタカムナ人は、現象の中に、目に見えぬ「ヌシ」を観ずる直観があり、それをカシコミ、仰ぎ見る思念から言葉がつくられたのです。
 また、オヤはコをイトシんで、イノチを育ててくれますが、「イノチ」を育むものはオヤの力だけではなく、そこにも常に、アマーアマナの関りがあります。そのような心情から、心からの「アリガトウ」「モッタイナイ」「オカゲサマデ」という、日本語独特の表現が生まれました。
 直観性能の劣化した後代人は、アマを擬人化したり神格化したり、創造主に見立てたりして、神秘思想を交えて解釈するようになりましたが、それでも、無意識にアマのヒビキを伝えるカタカムナ人の人情を残していたのが日本人でした。

 <タカ カム ムスビ>とは、「ミナカヌシ、すなわちアマナは、独立したカタチあるもの(タカ)と、カタチなきもの(カム)を生産する(ムス)もと(ヒ)である」と言う意味を表し、ミナカヌシ(アマナ)の役割を説明しています。

 <アマハヤミ>は、「無限の速さを持つアマの粒子」の意です。電磁波(光波、電波等)とは異なり、振動で伝わるものではないために、光速のように時間がかからず、アマの力はいかなるところへも瞬時的に及ぶのです。引力がどこにでも及んでいるように、アマハヤミは、思考する方向に即座に波及します。
 何かのインスピレーションが「パッ」とヒラメいた! という時に、それが当面の意識とは無関係で、無意識裡に突如として起こるものです。「虫が報らす」とか「魔ガさす」という時にも同様ですが、広い意味で、アマの「マ」がさすと解釈できます。こういう時のヒラメきの速さは、ほんの一瞬であり、脳の電氣の追いつける速さではなく、電磁波速度よりははるかに高速なのです。しかし、その後にそれを解釈したり、文章書きしたりする時には、脳細胞が働き出して、電磁波速度に変わってしまいます。アマハヤミは「電氣」を発生させる等の機能は持ちますが、それ自身は「電氣」ではありません。

 現代人が、生物の「本能」「性能」として捉える知識は、「人間的な偏見」があるにも拘わらず、直観性の劣化した人類と雖も、誰でもが、アマハヤミに感応する力を、生まれながらに備え持っています。初対面の人の第一印象や、他人の言葉を聴いたり読んだりした時にも、アマハヤミ的に通じたり、深い共感を覚えるところがあります。これが、アマハヤミの「無意識」の利用であり、モノを深く考えた人々は、大なり小なり、このアマハヤミを感じ、それをめいめいの体験の表現によって示していたのですが、問題は、それをめいめいの「意識」にうつす時に、いろんな「変形」「錯誤」「誤り」が混入するところにあるのです。
 私達も、雑念を離れ、彼らのようなスナホさになって、心から彼らの言葉に聞き入る時、共振的な共感によって、その真意がアマハヤミ的にココロにヒラメクのです。
 楢崎皐月は、この原理を利用して、カタカムナ人の言葉を解明したのです。長年の間、ナゾのままにされ、あるいは埋もれ、チリヂリバラバラニ拾われて、誤解にまみれていた古代の伝えの中から、カタカムナ人のカムヒビキを正しく聴きとる方法は、これしかなかったのです。古来、理論による体験の授受、伝達は不可能とされ、「体験は体験を以て聴くしかない」と言われてきたのも、アマウツシや、アマハヤミを説明するサトリがなかった、ということなのでしょう。

2.時間空間の性質

  アマカムナ アマカムヒビキ
   アマ ウマシ トキ トコロ ウ シ
   モコロ コロ トコロ チマタ シ トキ オカシ
   ソコ ソギ トコタチ メグル アマ


現代語訳(楢崎皐月氏による)
 「トキ トコロとは、アマから発生したマリ(粒子)であり、アマの本来性である、微分性と粒子性を受け継いで、現象に現れるものであること。「トキ トコロ」は互換し、常に、アマに重合状態で置かれている。恒に、正進、反転の循環を続け、膨張、収縮し、しかも、その逆性が同時に存在している。「トキ トコロ」のマリは、物質系、生命質系の最下限の粒子(モコロ)に変換する。モコロは、原子や細胞等の粒子に変遷して行く以前の微粒子で、電氣(イカツミ)、磁氣(マクミ)、チカラ(カラミ)の集積位相を持ち、電氣、磁氣、力等の現象に遷移する性質がある事、また、トキトコロのマリは、物質中に、常にアマナとして内在する、つまり、アマから発生して、アマと交流しつつ、さまざまな変遷を経て、やがて、またアマに還元するという、循環を繰り返していること。アマは、位置によりアメの密度差があって、チカラの濃いところから薄いところは、常に運動を続ける状態であるから、現象粒子としては、「時空量」は「存在値量」として「粒子性」を持ち、また、「力の位置エネルギー」として「波動性」を持つことになり、物質の「質量」は、「トキ トコロ」のマリの量の多寡によって定められること。」

 <アマ ウマシ トキ トコロ ウシ>は、「トキ トコロの発現する始まりは、<アマ>であり、時間空間量は、アマの「元」から、生成したものです。そして、トキ トコロは互いに「交換」を続けながら、常にアマに「重合」し、互換重合の状態にある。」という、時間空間の基本的性質を述べたものです。
 <ウマシ>は、「生まれた示し」、<ウシ>は、「ウまれてくるウシロ(客観背後)の示し」の思念です。
 <モコロコロ>は、「トキ トコロの粒子は、モコロの粒子に変換する。」という意味。モコロは、電氣、磁氣、力の三要素で形成される、物質系、生命質系の最下限の粒子(モロモロのコロ)であり、そのような集積位相の状態を意味するヒビキです。コロは変転の意。
 <トコロ チマタ シ>は、「トコロ(空間量)は、微分性(チマタに分かれ拡がる個々性のタチ)を持ち、現象の微分性を支配している」の意。換言すれば、「現象が微分性をもつのは、現象が、トコロによって形成されるモノであり、トコロには微分性があるからである」の意、となります。
 <シ>は、モノを「示す」理念(ニシ、ヒガシ、イタシ、良シ等)です。
 <トキ オカ シ>における、オカシの音の基底思念は、「六方の立方体(オ)のカタチ(カ)を示す(シ)」で、「カタチにマトマル性質」すなわち結球性です。
 <ソコ ソギ トコタチ>は、「現象には、膨張(ソコ)と収縮(ソギ)の共役共有性(トコタチ)がある」という意味を表します。トキ トコロのマリは、常にアマに重合・互換しているから、アマの微分性、結球性が受け継がれて、時間、空間の膨張・収縮性となり、相反する性質が、同時に共存共役して成り立っている、という意味です。<トコタチ>は、「微分・結球、膨張・収縮の相反する正反性が互換重合して共存して働く性質」の意。トコはトモにコロがるの意で、床の意にもなっています。永遠の意は二次的なものです。
 <メグル アマ>は、「アマの始元量は、正反の逆ムキに、循環運動を続けている」ことを現わしています。一般の現代人には、受け入れがたい概念ですが、最近の科学は、時空量の同質性や正進反転性を肯定するようになっています。ただし、これを運動系として扱わなければ、タイムトンネルのような誤解を生むことになります。

「トキ トコロ」について カタカムナ人の「トキ トコロ」の捉え方は、現代人の「時空間」とは異なったものがあります。それは、「トキトコロはマリ(粒子)である」ことを直観し、現実の時空間は、そのマリの変遷したスガタとしていることであり、これは現代科学にはない発想です。したがって、「トキトコロ」は直ちに、現代人の言う「時間空間」であるという解釈は成り立ちません。一般に「空間」と言えば、「物体間の何もない空間」を思い、その中で「時間」は、時計時間的に進行するものとのみ思い込み、物体それ自身も空間であるとは考えていません。
 カタカムナ人の直観では、空間はマのことで、そのマが凝縮したものが物体であるということです。言い換えれば、マとはアマであり、アマの微粒子のマリが密充填的に行き渡り、渦巻いている空間です。そのマにアマのカタヨリやヒズミガ起こり、アマの微粒子が集まって(マリ)、次第に濃密に凝縮してアマナ(原子核)を構成したものが原子であり、それが「物体」をカタチ造る、と観じたのです。したがって、物体と物体の間「アイダ」も「空間」ですが、「物体」もまた「空間」であり、物体は、発生と同時に、それぞれの「空間」と「時間」を持つのです。
 このように、時間空間と呼ぶ現象の本質は、アマが微分され、マリとなった粒子が集合し、「トキトコロのマリ」となったもので、現象界の万象万物は、この「トキトコロ」のマリが、「アマナ」となり「モコロ」となって、アマの本来性である「微分性」「結球性」の正反性を受け継ぎながら、変遷し、次第に分化して行ったもの、と観じたのです。「微分性(チマタシ)」とは、「分かれ拡がる性質」であり、現象界では、拡大、分散、分解、膨張、運動等の性質(ソコタチ)を現わし「波動性」となります。カタカムナ人は、これを「イザナミ」と呼んでいます、また、「結球性(オカシ)」とは、「球状にまとまろうとする性質」であり、現象界では、収縮、結球、結晶、統合、静止等の資質(ソギタチ)を表し、「粒子性」となります。これを「イザナギ」と呼んでいます。このように、イザナギイザナミは、すべての現象のモトには、アマの本来性の。この正と反の性質が受け継がれていることを観じたヒビキであったのです。イザはモノの始まりを表し、ナミ(膨張性波動性)とナギ(収縮性粒子性)は常に離れず、一つのモノには必ず相伴う性質です。現象界の波(電波、光波、音波、水波、地震波等)には、波動性と粒子性が同時に見られるのは、すべてこの、イザナミ、イザナギの相似象です。なお、この相似象は、人間の精神や、社会の現象にも見られる相(スガタ)です。
 すべて、「モノが発生する」「存在する」ということは、トコロチマタシ(空間を微分すること)であり、同時に、トキオカシ(粒子として位置を占めること)なのです。
 カタカムナ人観じた「トキトコロ」は、現代人の「時間空間」の概念とは関係なく、物質中に存在するマリ(粒子)のことであり、物質の「質量」とは、このトキトコロのマリの量によるものであって、質量が大きくなるということは、トキトコロのマリの密度が増すことであります。このように、「トキ トコロ」は、カタカムナ人が物質の存在に関わる最も根本的な「本来性」を解明したヒビキなのでした。物質が現象界に現れ、アマの持つ正反の本来性である微分性と結球性(トコロチマタシ、トキオカシ)を受け継いで、変遷して行く相(スガタ)をソコソギトコタチ(膨張、収縮の、イザナミ、イザナギの共存性)として観じたのです。
 現代の科学が観測しているものは、この変遷の相、即ち現象の状態であって、本質はわかっていないのです。物質は、たえず「トキ トコロ」の量を変化させながら変遷しています。しかし科学では、「時間経過」として捉え、「空間中で時間が経過する」と固定的に考え、別々の二元としてしまいました。
 本来変遷している相(スガタ)を、一面だけの固定したものとして観測すれば、アヤマリが出るので、それを修正するためには、相応の理論が必要であり、それは大きく本質を把握した「哲科学」でなくてはなりません。
 例えば、天文学で星の距離を測る場合も、相対性理論以前の物理学では、光は途中の空間をすべて一定の光速度で直進するものとして、しかもある一瞬字を捉えて計算していました。しかし現在では、相対性理論を用いて、天体自身の回転と軌道運動を考慮して修正が入るようになりました。しかし、カタカムナ人からすれば、それでもまだ正とは言えないのです。なぜならば、相対性理論そのものの根拠にアヤマリがあるからです。
 アインシュタインは、時空間の「伸縮」や「変形」を考慮し、時空の「同時性」「同質性」を考えていました。高所からモノが落下して行けば、質量が増します。それは、時空の占有率が高まる事、即ち、時空粒子(位置エネルギー)が多く入ってくることであるとし、また、光速度に近づけば、時空の同時性が現れると言っています。これは、時空間を「マ」として捉えたことになり、カタカムナ人の直観内容に迫る、正当な観察ではありますが、「光速度に近い場合」という条件付きの特殊な現象として説明され、一般化されてはいません。また、時空の伸縮や変形も特殊な現象と捉えているのは、互換重合の認識がないからなのです。
 カタカムナ人は、鋭い体感的直観に基づき、発生の根源から、モノの本質を捉えて、現象解明を行っているのに対して、科学は、観測に掛かった末端の現象を捉えて、実用的な理論を立てているだけのことなのです。その為に、宇宙の中には、少々の誤差を修整する程度ではすまない事態が存在することが、次第に明らかになってきて、時間空間の「元々」の考え方に、反省と、根本的な見直しが必要になってくるわけです。
 このように、カタカムナ人は、トキトコロの粒子性にしても、大きな物理体系の中で捉えている点で、直観物理の高度さには、素直に平伏することが出来るのです。
 カタカムナ人の感受したような、トキトコロの性質(トキとトコロは互いに交換し、膨張・収縮の性質や、質量とも関係する、又反転することもある等)は、現代人の思考概念にはないことです。すなわち、私達の生命体にも、すべての物質にも存在する、「トキトコロのマリ」という直観を全く失ってしまっているのです。

 真理というのは、専門的にいくらでも高度な理論によって説明ができると同時に、平易でわかり易い表現でも教えられるはずなのです。それには、「スジの通った」ものでなければなりません。そのためには「本質本性の把握」が正当であることが必要で、そうであれば、一貫した説明ができるのです。私たちにとって、現代科学は難しいが、直観物理なら、ムリなく納得できるのは、「スジが通っている」と思うからなのです。

集積位相 互換重合  科学では、現象粒子の「在位質量」とか、賦存の「位置エネルギー」とか位置の「電氣エネルギー」等として、別個に捉えているものは、カタカムナ人の観方から言えば、アマから発現する、トキトコロのマリ(粒子)の荷う「集積位相」の変遷を、人間の意識で、別個のものとして捉えているだけである、ということになります。
 また、波動性・粒子性、正進性・反転性、引力・斥力(さらに、陰陽、吉凶、愛憎、悲喜……等)の矛盾し、相反する性質が、同時に共存する事実の説明も、トキ、トコロのマリが、アマ始元量から受け継いだ本来性としての、共存共役(共役とは、車のナガエのように、両者の間に存在して、それがあって、はじめて両者が成り立つ関係を言う。)の互換重合性(トコタチ)によるものだと言う直観によって解明されています。
 <アマ>と云う「元」が認められれば、トキトコロの正進・反転の共存という概念も、簡単に理解できるし、宇宙にたえず続く循環系のメグルアマという直観も、素直にうなずくことが出来ます。このアマの存在は、カタカムナ人は、観念からではなく、直観によって、体覚的に感受したものであり、彼らの直観は、以下のカムヒビキを虚心に読むことによって、現代人の私達も次第に受け入れ、納得することが出来るでしょう。
 「集積位相を持つ」というのは、「一つのモノがいろんな面を持っていて、状況に応じてその一面が表れるために、見る側かは、さまざまな相(スガタ)として観測される」という意味です。現象界のすべてのモノは、アマの「元」から生じたアマのマリ(微粒子)の変遷であり、アマの本来性を受け継いで分化生成されたモノです。モノのが発生するためには、目に見えぬ「カム」の潜態から、目に見える現象界(宇宙)に現れることであり、最小限、「トキ」と「トコロ」の位置(イチ)と、その位置を持続させる力、砂すなわち「イキ」とか「イノチ」といった「チカラ」の位相を持つことです。
 モノが発生し、「空間」を占めれば、時間空間の経過が始まり、「空間」なしに「時間」は経過しないし、「時間」なしに「空間」は存在しません。
 また、「時間」を微分して行けば、次第に短くなって、遂にはイマ(今)という瞬時の一点になり、それは、空間を微分した目に見えない一点と重なってしまいます。すなわち、時間、空間は、同一の物質の異なる「位相」として、分けることが出来ないのです。
 トキ、トコロのマリが、時間の経過につれて、さまざまな外界の刺激に応じて、さまざまな位相をもつのは当然で、それを、それぞれの場合によって、アメ、ココロ、マリ、イカツミ、マクミ、カラミ、トキ、トコロ、イチ、イノチ等と言い、変遷や過渡の状態に応じて、イカツ、ウキフヌ、カブシヌ、サヌキ、アワ、モコロ、ミツゴ等とか、アマ、アマナ、マ、ウシ、カミ、カム等々と呼んで物性を述べています。
 カタカムナ人は、すべての物質生命質の最下限の単位をモコロとし、その素量をイカツミマクミカラミとし、それはアマの微分のアマの結球した、トキ、トコロからマリの変遷した「集積位相」として、一貫して観じていたのです。このように、用いる用語に「和語」を用い、それに慣れてくれば、漢字で表した科学用語よりもわかり易くなります。それは、元になるカタカムナ人の哲学が、マとかイとか言った、一音一音の声音で捉えた、天然、自然の本質をマトモに把握していたからに他ならないと思われます。それが日本語の特徴として、現代にも連綿として続いているのです。

 モノと言うのは、決して単一の面だけで存在はしません。モノの発生は、立体を形づくる事と同等で、それは多面を持つことです。同時に正反の時間をも持つのです。モノが発生して、先ず立方体のカタチ(粒子)をとるということは、アマの本来性の、トコロチマタシの微分性と、トキオカシの結球性との、互換重合によって、球状のマリとなる事です。球は最小の面を持つ立体であり、安全性を保とうと自衛する相(スガタ)です。
 このようにして現象界に現れた粒子は、アマの本来性を受け継ぐ拡大性と収縮性(ソコ・ソギ、即ちイザナミトイザナギ)の互換重合性によって、次々と変遷し、遂には巨大な天体(タマ)となり、長大な時間経過を持つことになるのです。

時間・空間  カタカムナのサトリによって、「トキ トコロ」の「本質」を心得た上で、現実の「時間空間」の「現象」を観察すれば、新しい見方が開けてきます。「空間」には、凝縮・拡散という正反の性質があるように、「時間」にも、アマから生成発育する「正」の時間と共に、崩壊してアマに還元して行く「反」の面もあり、時空の一瞬(イマ)には、この性・反の性質が重合し、互換して現れています。また、「空間」の拡がりや縮まりにはいろんな変化があるように、「時間」の経過にも密度差があります。
 誰かと待ち合わせの時などは、「時」をとても意識しますが、何かに集中している時には、時を忘れています。悲しみや憤りで一杯な心も、いつか薄らいでいき、「時」が総てを解決する、などと言います。しかし、人が「時」を意識しようがしまいが「時空」は常に「共存」(トコタチ)しています。悲しみが和らぐのも、ただ「時」が過ぎたのではなく、さまざまな空間が、時間とともに経過し、その間に精神状態も変遷して行ったからなのです。時間空間は、常に互換重合しつつ変遷しています。また、それぞれが固有の時空間を持っていて、必ずしも一定の固定した尺度で測れるものではありません。
 このようなトキ、トコロのトコタチの思念の伝統は、現代日本語の中にも残っています。「雨が降ったとき」などというときの「とき」は、時間と言うよりは「場合」という空間的な気持ちであり、「ときところ」と言う日本語には、もともとは「時間空間」の意味が重合して使われていたのです。しかし、最近では、本来の意味は影を潜め、時間空間の重合感も失われかかっているのが現状です。

 現代人は、モノの変遷の実相を、時間的な面、空間的な面で、別々に捉えているだけですが、「トキ トコロのマリ」の変遷の仕方によって、さまざまな時間空間が現れ、伸縮・変形します。常に現象の背後にアマの潜態を観じていたカタカムナ人は、「あなたの時」と「私の時」は同じではない、と考えていたことでしょう。それを一定の時計時間で測るのは、一応の約束事に過ぎないのです。私達も、自分たちの「時間空間」の観念を整理して、「トキ トコロのマリ」という上古代人の直観を味わってみれば、人生に対する全く違った観点が見えてくるようになるかもしれません。

 「時間空間の互換重合(トコタチ)」は、カタカムナ人の鋭い直観に拠るモノですが、事実をアリノママにスナオに捉え、最も肝要な本質をズバリと指摘し、アマ始元量を認める者にとっては、どこからみても破綻の無いサトリなのです。「互換重合」の観じ方は、現代人の常識にはないのですが、直観物理を理解する重要なポイントとなっています。すべて、矛盾し、相反する、正・反の性質が、物質、生命質を問わず、また精神現象、社会事象にも常に共存共役している、と言う事実を「互換重合の集積位相」(トコタチ)と見抜いた直観は、実に鋭いものです。
 現代科学も、重畳理論によって、「重合」には接近しつつありますが、「互換」と言う観念はありません。しかし、万物万象の相(スガタ)をアリノママに把握するためには、「相互重合性」が必然となります。現代科学の行き詰まりを打破するためにも、この概念は、早急に理解し、把握しなければならぬものではないでしょうか。
 現代人は、カタカムナ人のような直観的な自由な考え方はできなくなり、対人関係や、物事の判断に当たっても、自分の都合の良いように歪めて解釈したり、一面だけの固定的な強調によって、自分のアヤマチを隠し、後悔の念を紛らし、しかも、そのように行動している自分自身の真理の奥底にある、無意識の妄動の原因を知らず、そのような「人間的判断」を、神仏の意思であるとか、高度のサトリであるとかのように錯覚し、自他ともに疑わぬ、というようなことが、相当な知識人や専門家の間にも横行しています。それは、皆、「カン」が鈍いためなのです。
 カタカムナ人の真に大きなスケールのサトリは、気が付いた者だけしか学べないかもしれませんが、「直観」と言う能力は、人間が本来持っている性能ですから、衰えたりと雖も、再び「その氣」になれば、上古代人のヒビキに共感し得るまでに高められないはずはありません。したがって、「動機」があれば、潜在力発揮のチャンスが訪れます。氣が付きさえすれば、あとは、訓練次第なのです。

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