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カムナミチ....アマ-カムのサトリ      カムナガラノミチ 2           【直観物理と相似象 その 20】 


 楢崎皐月氏は、古文献の記述の中からカタカムナのヒビキを感じて、その思惟を理解したサトリを、相似象学会誌「相似象」第4号と第5号に整理して掲載しました。ここではそのサトリの中で<カムナガラノミチ>を解説した第5号をの内容を取り上げていきます。そのいくつかの句については、第4号の「カムヒビキ」の内容と重複している部分もありますが、<アマ-カム>(<カムナ-アマナ>)の対向という、より高次の見解をも含む解説となっているので、その観点からの新たな示唆を期待して、楢崎氏の解説の中からできるだけ多くの句を紹介して行きたいと思います。
 カムナガラノミチを伝える<カミカタリ>も、<カムヒビキ>と同様に、五・七調の歌詞によって長々と続けられます。楢崎氏は、歌の中で使われている言葉を細部にわたって克明に分析し、詳細な記述をしているので、一回読んだだけでは把握しにくいかもしれません。最初は細部の理解に固執しないで、全体を把握するようにし、直感を鋭くして、アマウツシを意識し、何度か読み返しながら、イメージを掴んでください。

カムナミチ……アマ-カムのサトリ

 最初の8句は、<カムナミチ>(<アマ>に対応する<カム>の関係)であり、<カム>から<アマ>がどのようにして創成されるか、というカタカムナ人のサトリの大原則が示されています。

第1句 カムとアマの関係

アマカムナ アマカムヒビキ
カムナガラ 
 タカマソトハラ オシクモネ 
 タカマハルハラ アラカミチ 
ウマシアマタマ カムナミチ

概要の意味
 「人間の目にはカタチや象は見えないけれども(カムナガラ)、宇宙球(タカマ)の外域(ソトハラ)は、立体的に拡がる雲に覆われており(オシクモネ)、宇宙球(タカマ)の張り出す空間(ハルハラ)である。それは、アマの始元量を含み、始元量によって成り立つタマ(宇宙球)を生み(ウマシアマタマ)、宇宙におけるすべてのモノを創成する場(アラカミチ)である。」

 冒頭の<アマカムナ アマカムヒビキ>については、カムヒビキの解説でも述べましたが、枕詞的に使われているもので、アマの始元量がカムから発生し、アマが変遷分化する時に壮大なヒビキを伴う、という意味を強調しています。

カムナガラ

 また、これ以後、各句の頭詞に現れる<カムナガラ>とは、神道教義の中に取り入れられ、使われているものですが、もともとはカタカムナにおいて「カタチや象は見えぬけれども…」という意味の言葉であって、神道教義での「惟神」の意味はなかったのです。 

タカマソトハラ

 アメの集合系である「アマの始元量」は、カムから発生した潜象の存在です。宇宙(タカマ)は、有限の球体、すなわち宇宙球であり、それは限られた現象の世界なのです。アマには、「タカマ(宇宙球という容れもの)」と「始元量(なかみ)」の両方の意味があります。その宇宙の外域にはクモのような無限の客観背後界(ソトハラ)が拡がっています。そのソトハラを構成するのが、基礎界の「カム」なのであり、そのカムが、宇宙現象を構成する始元量(アマ)を創成するのです。
 <アマ>は潜象ですが、その微分のマリが変遷して、宇宙を構成する現象系のモノとなります。この過程で変遷するモノは多種類に及びますが、それらは細分化して表現することができます。この変遷は<マトマリ>と表現されています。
 しかし、カムに関しては、アマよりさらに遡った潜象の存在であって、もはや科学識は役立たず、直感による把握しか可能ではありません。

 この歌は、宇宙球(タカマ)に関するサトリが基底となっています。宇宙は、一定の大きさを保持した状態にあり、ビッグバン理論の唱えるように、宇宙の誕生以来、膨張が続いている、ということはないし、更に「ビッグバン」そのものが存在しなかった、というのがカタカムナ文献から帰結できる現実観です。科学的にも、宇宙探査が行われつつある現在では、観測結果から、ビッグバンでは説明のできないような現象が次々と現れてきていると言います。そのため、新しい宇宙論も生まれています。宇宙空間の 99 % はプラズマで占められており、天体の運動法則がプラズマに働く電氣現象に支配されるという、プラズマ宇宙論「カタカムナ人の直観物理と相似象(14)」参照)や、その流れを汲んだ「エレクトリック・ユニバース」理論もそれらの一つであって、カタカムナ人の提示した結果により近いものとなっているようです。

 <タカマ ソトハラ>は、「宇宙球の外の原」すなわち、「アマ始元量によって成り立つ宇宙球が張り出している外界域」のことです。
<タカ>について: <タ>は、離れ、遠のき、独立の思念を持つ声音。
<タマ>とは、アマから分離した球であり、アマの集合系をすべて相似象的に意味し、電子、原子、細胞、ヒト、天体等の現象系の個体の意味をも持ち、小さなものはマリ、大きなものをタマと呼ぶ。(タマが死ぬと、「タマシヒ」となる。)
<タカ>は「現象に現れる」の意味となり、すなわち、「<カム>が現象に現れて独立する」ことを表す。
<タ>の思念: タ(他、多、誰)、タツ(立つ、経つ)、タチ(性質、裁断)、タル(足、垂、弛)、イタ(板)、カタ(肩)、マタ(又)、完了形(シタ、ミタ等)等
<カ>は形を意味する。
<タカマ>は、アマを「宇宙球」として捉えた表現。
<タカマクラ>は、その「天球の座」の意味。
 言い換えれば、現象中に現れた最もハジマリが、カミ(起源)であり、目に見えるカタチを<タカミ>ということになるから、よく目につく高い場所はタカミ(高身)、低地をヒクミ(低身)、目に見えぬカムの<ミ>は「カムミ」となります。

 <ソト>は、統合(ト)からソレた思念で、「外」の意味となります。

「ハラ」は声音図象符から、「平行に並び正反に拡がる」思念となります。

(ハ)       (ラ)

また原のように広がる思念から「分化発達」の意味もあります。
 <アマノタカマカハラ>は、アマの発生(タカ)、変遷(マカ)、分化還元(ハラ)の過程を示します。

 <オシクモネ>とは、その外界線は「立体的に(オ)示された(シ)無限遠に拡がるクモのようなネである。」の意味、<クモ>とは、自由に(ク)引きずっているもの(モ)の思念から、相似象的に雲の意味。<モ>は藻の如く後を引き、<ネ>は根の如く粘りが拡がる、という思念、すなわち、オシクモネは、何かは不明だが、目に見えぬ雲のような「遮るモノ」が繋がっていて実態が掴めない、という感じを表現します。

 <タカマ ハルハラ>は、そのクモのような外域に、宇宙球(タカマ)が張り出しているスガタを現しています。「ハル」は正反に張る意味、「ハラ」は前述の如く「原」であり、宇宙球が張り拡がって膨張する様子です。

 <ウマシ アマタマ カムナミチ>は、「アマタマ(宇宙球)を産むのは(ウマシ)カムナの支配するミチである」という示しです。<カムナ>はアマナの原象で、<アマナ>がアマの名代として物質内に入り込んでいるように、<カムナ>はカムの「ナ(主、名代)」として、アマナに通じています。<ミチ>は「ミ(実、身、味、三)の持続(チ)」の思念で、「道」や「行い」を意味します。<カムナミチ>は、「カムのミを、次々に産み続ける道」の意味で、それをアラカミチ(宇宙創成の場)としました。

 <アラカミチ>は、「アマとカムの複合系の潜象から、あらゆる宇宙の森羅万象をカタチつくり、新しいイノチが創成される」という直観を示し ます。「アラカ」は、アラゆるカタチ(現象)が新しくアラハレル、という思念で、「新しく創成されるミの連続(新しい道)」の意となります。

「今」と<イマ>

 <アマ>の微分である<イマ>は<カム>の生む潜態です。「イマ」に関して、「相似象」では以下のように説明していますが、三次元空間に慣れた私達のアタマでは捉えがたい面もありますので、既成概念を持たず、本質に立ち返って考える必要があります。。
 『現代用語の「今」を考えると、「今」は刻々と発生して無限に連続するモノで、絶えず移動しています。「時間空間」はその「今」の連続したものと考えられます。しかし、時間空間上に時点、位置点を1点定めても、固定された点は、もはや「今」とは言えません。「今」は観念的なもので、測定の単位も存在しません。
 しかし、直観物理の<イマ>は、極微的思念であり、<マ>の絶対的単位量として捉えたモノであって、それ以上に分化すれば、アマ始元量へ還元され、その潜態であるカムへと統合されてしまうのです。
 現代用語の「今」とか、「時間空間」は、この絶対的単位量のマリ(イマ)が現象界に変遷した相(スガタ)を「集合系」として捉えたものです。すなわち「時間空間」の本質は、この<イマ>であり、それは<トキ トコロのマリ>なのです。
 直観物理では、刻々に発生・消滅する<イマ>を統計的に捉えて、これをイマタチと呼びます。動画のように、一コマごと高速で連続して点滅する画像が、人の目には映像の動くスガタとして見えるのに似ています。
 これは電流の場合も同様で、電線上に、アマの変遷した潜態の電気素量(イカツミ)を持つ電子(サヌキ)が次々に発生・消滅していると捉えられ、その真相も<イマタチ>の物理を当てはめることができます。ただ、電流の場合には、電磁波速度(光速)での発生・消滅の繰り返しとなりますが、アマ界の流動の場合には、そのスピードが極端に速い超光速であり、遮るモノが無い限り、私達の周辺にはそのイブキが飛んでいます。
 以上のように<イマ>は、潜象粒子(マリ)と捉えられ、<イノチ>とは、連続した<イマ><イマ>……のイブキの中で干渉を受けたマリ(イマ)が、ある「時間空間」を保つ(チ)状態(ソコチクネ)となります。
 このように<イマタチ>は、万物の<イマ><イマ>的性質(タチ)により、すべてを<イマ>の相似象として、固定せずに、アリのママに捉えた言葉です。直観物理では、万象を「統計的存在」として把握します。また、質量あるモノのみを扱う現代科学とは異なり、直観物理では、潜象の立場から、無常のスガタは無常のままに観察します。』

イマの基底思念

 <イマ>における「イ」は、「極微の量」(微分)という思念です。「イ」からは、他にも
 イカツ、イキ、イノチ、イツ、イミ、イモ、イサ、イシ等
が作られます。現象界のすべてのものは、<イマ>の変遷であり、<イマ>は<アマ>から生まれて、時空を現象し、やがては<アマ>に還り、そして、<アマ>は<カム>に回帰します。
 これが「アマーカムの対向(ムカヒ)」と呼ばれるもので、現象界に現れる、正反の相反するスガタの相似象のうち、最も原型となる原象となります。カタカムナ人は、この現象から、ミトロガエシ(物質変換法)、カムヒルメ(製鉄法)等を開発しました(後述)。
 生死を齎すイノチの特徴も、刻々の<イマ>の方向性に影響され、人生の幸不幸、人間の人格等も、「今」「今」の積み重ねにより形成されます。遠方の出来事が一瞬に思い浮かんだり、突然のインスピレーションが閃いたり、睡眠中の出来事にもすべて、<イマ>を生み続ける「カムーアマの対向」(<カムナ><アマナ>の持続的関わり)にあります。これがカムナミチで、その目に見えないミチが、アマ界のすべての物質(タマ)を生み、左右の旋転循環運動(マワリテメグル)の目に見えぬ軸となり、常に<アマーカム>の方向に向き、その原動は、「複合系の潜象」の無限のチカラから発動します。
 宇宙の万象の分化変遷の中で、アマの本来性を正しく伝え合うのは、<カムナガラノミチ>が通っているからなのです。

<アラカミチ><カムナミチ>

 <カムナガラノミチ>は、刻々に<アマタマ>(宇宙)をアラタに創造するミチであり、宇宙の万象は、すべてアラカミチによって発生し、人間のイノチもその相似象です。カムナガラノミチには、「カムナミチは、万象の原象である神をマネて(カミに相似して)、切り開かねばならぬアラカミチであること、すなわち、あらゆる文化も、常に新たに創造されるスミチ(産み出すもの)である」というサトリが示され、人間が生活するために生み出された様々な技術が示されています。

 <アマ>から発生する諸々の現象は、<カム>のミチを受け継ぎ<アラカミチ>を生み続けるという動きの中で、進行して行きます。すべての動植物・鉱物が、環境によって変遷分化し、適応しながら進化したのも、<アマウツシ>の相似象です。人間を含む生物が、いかなる災害に遭遇しても、どのような状況においても何とか生存を保とうとするスガタは、アマーカムの対向において、カムから刻々と波及する、新しいチカラによって発生する<アラカミチ>の相似象です。このように、アマから種々の現象が発生することを、アマノカケハシ、あるいはアマノアナトと言い、カムからアマの生まれるスガタを、ホラミチ(第2句、第4句の説明参照)と言います。

第2句 「チカラ」の発生(正反対向、四相(トヨ)のサトリ)

カムナガラ
 タカマカキシネ トヨカブシ
 チカラムスクラ アラカミチ
メグルアマタマ カムナミチ

概要の意味
 「人間の目には、カタチは見えぬが(カムナガラ)、宇宙球の外郭は、タカマ(宇宙球)をカタチづくる根(カシキネ)であり、厚い球冠(トヨカブシ)である。そこは一切のチカラを発生する場(ムスクラ)であり、宇宙球を構成するアマ始元量が循環運動を起こす場である(メグルアマタマ)。すなわちそれが、宇宙創成のアラカミチであり、カムナのミチである。」

 <タカマ カシキネ>は、「タカマをカタチづくり、シキっている(構成する)ネ」という意味です。「宇宙の外側の壁のような根」を意味しますが、壁や根は、目に見えないクモのようなオシクモネです。次の句の<トヨ カブシ>はこの句の言い換えです。

 <トヨ カブシ>は「豊かな冠」という意味です。「トヨ」は統合(ト)正反四相(ヨ)の思念から、「豊か」の意味になります。「カブシ」は、「かぶっているもの」を意味します。したがって「トヨカブシ」は、「宇宙の豊かな冠」という形容で、カムのチカラがアマ界に統合して、四相となり、万物を生成する物理を示しています。

 <チカラムスクラ>の意味は、「力を発生する(ムス)場(クラ)」です。「ムス」は「発生する」という意味であり、神話や祝詞に出てくる「ムスビ」は、本来は「」すなわち、「発生する根源」の意味ですが、二次的に発生した意味で、「結び」と解されています。「森羅万象を発現する宇宙の運動の根源は、宇宙のソトハラにあるカムのチカラに基づくものです。

 地球、月、太陽等の天体の運動を与える力や、電氣磁氣のエネルギーの出所や行く先はすべて宇宙のソトハラです。そこには無限のチカラの壁があります。このカムのチカラが、アマ界において、イキ(生氣)、イノチ(生命)、イキホヒ(エネルギー)となり、イカツミ、マクミ、カラミという素量となり、粒子(マリ)に変遷して電子(イカツ)となり、電磁波、輻射波にもなり、原子を構成して各種の元素となります。宇宙界に現れるすべてのものは、マワリテメグル循環系であり、その運動のチカラを発生するクラは、<カム>にあります。カムは、カタチは見えねども(カムナガラ)常にアマと重合し、刻々にアマタマを生み、またアマタマは刻々<カム>に還元するという、大きな循環系を成しています。このように、<アマ>が宇宙の万象を生み、万象は<アマ>に還元するという循環を行いながら、<アマ>自身が刻々に<カム>から生まれ、<カム>に還るという、複合系の潜象になっているのです。

 <メグルアマタマ>の意味は、「アマの始元量や、それにより成り立つタマ(宇宙の天体)は、マワリテメクル(自転しつつ公転する)運動系である。」というものです。この句は、「アマタマは旋転循環の運動体であり、その運動を起す起源のチカラは、タカマソトハラ(アマタマの外域)のカシキネのトヨカブシで創成される」すなわち「宇宙の外側は、無限のチカラの壁である」というサトリを示すものです。この「力の壁」を原型とする相似象として、現代科学において「現象粒子の外側に、エネルギー障壁が存在する」という現象が存在します。
 アマの状態は、動的には「旋転循環」であり、静的には「膨張収縮」と捉えられます。その運動のチカラの源泉は<カム>にあり、カムナミチによって、<カムナ>の相似象である<アマナ>に通じています。<アマナ>は、球状のミナカヌシとして物質内に入り込む「内核」であるのに対して、<カムナ>は「外核」であって、球状ではなく、空洞がその相似象となっていて、名称も「ホラミチ」とか「カクレホラ」と呼ばれ、より次元の高いものとなっています。
 

第3句 サネ、タチネ(オメタグヒ 「異性親和」のサトリ)

カムナガラ
 タカマナリフネ サネタチネ
 カムナアマナノ アラカミチ
タカマミハシラ カムナミチ

概要の意味
 「人間の目には、カタチは見えぬが(カムナガラ)、宇宙球の成り立つ二つの根源(ナリフネ)は、カムナという雌性の根(サネ)と、アマナという雄性の根(タチネ)である。宇宙体(タカマミ)を保つ柱(ハシラ)は、現象の始元界(アマ)と、客観背後の無限界(カム)とによって刻々に創成されている。」

 この句の根底には、「万象におけるオメタグヒ(すべてのものに、雌雄の性の種類がある)という、『異性親和』の相似象」があります。すなわち、万象の雌雄の性の根源に、客観できない核(サネ)と、核で生産される種(タネ)との二つの本性(ナリフネ)があり、その二つが合体して四相(トヨ)になることで、新しい生命が発生するというサトリがあります。

 <ナリフネ>は、「タカマの成り立つ二つの根」という思念であり、フネとは、サネ、タチネの「二つの根」を指しています。(「舟」は古事記での当て字です。)

 <サネタチネ>は、「雌雄性の根」であり、「オメ タグヒ」と同義語です。直観物理では、動植物から鉱物に至るまで、万物はすべて両性を持ち、その「性」の本質は、電氣的素量(イカツミ)のオメタグヒ(サヌキとアワ)である、としています。すべてのものにはイノチがあり、イノチ(イの持続)は、両性の電氣的結合によって保たれ、それが解ければ崩壊となります。それは部分的には「新陳代謝」、個体としては「死」となります。
 新鮮な野菜が美味しく感じられるのも、両性の結合力が強く、イノチが豊かに保持されているからであり、日が経つにつれて味が落ちるのは、結合が解けて、イノチが失われて行くからなのです。
 このような「サネタチネ」の「原象」は、<アマ-カム>の対向(ムカヒ)にあります。現象界においては、<アマ>は「母性」の象徴ですが、<アマ>を産む<カム>は、より高度の雌性(サネ)の原象であり、<カム>に対しての<アマ>は、雄性(タチネ)の現象として示されるのです。このように、現象面に現れた男性、女性の明確な区別に見えるものも、実は固定したものではなく、それぞれに二つのネ(フネ)を持っていて、男性も、女性も、共に「サネ タチネ」の要素を持っているのです。したがって、位相が固定するまでは、自由に転換が可能なものなのです。また、男性も女性的な位相を、女性も男性的な位相を持っています。

 <タカマミ ハシラ>とは、タカマの実体(ミ)を保つ柱という意味です。(ここでの「ミ」には、後代の引信義である「御」の意味はありません。)「ハシ」は橋、端、箸のように、正反を渡すもの、「ラ」はその現れの思念です。この思念から、「ハシラ」は柱の意味を持ちました。

 <カム>は、アマの現象界の背後界ですが、同時に、カムは常にアマと共役していて、無限に遠い客観背後界のカムも、同時に、細胞や原子の中に、アマナとして存在し、アマナは刻々にカムナに通い、<アマーカム>は常に現象界の「内外環境」となっています。

 このように、天然自然の本質本性は、変遷の過渡状態にあるのです。

第4句 カハリカサナリ(互換重合 トコタチ、イマタチのサトリ)

カムナガラ
 タカマムスクラ カハルクラ
 アワセカサナル アラカミチ
アマカクルホラ カムナミチ

概要の意味
 「人間の目には、カタチは見えぬが(カムナガラ)、宇宙球の外域の無限界(カム)は、宇宙(タカマ)を創成し、また還元していく場である。アマは次々と分化し変遷(カハル)して万象を産む母体(ムスクラ)であり、互換(カヘル)、重合(アワセカサナル)の場であるが、万象はやがてアマに還元し、アマはカムに回帰して(カクル)ゆくのである。」

 <アマ>と<カム>は交流し、生成・還元の新陳代謝を繰り返しますが、それは超高速で行われるため、私達には認識できません。このことは、アマ界の中では、天体や天体上の万象が、それぞれ、生まれては死んでいく現象(例:人間の身体の新陳代謝等)との、相似象を成します。宇宙のイノチも私達のイノチと相似象で、刻々とカムと相互重合を続ける統計的存在です。私達の意識が、トキトコロを問わずに、宇宙の万象と繋がることのできるのは、このためです。

 <アマカクルホラ>とは、「アマがカムに帰って隠れるホラ」の意味で、カクルは、離れる、駆けるの意です。ホラは、単なるアナではなく、どこまでも続く「ホラアナ」の道になっています。すなわち<アマカクルホラ>は、<アマ>を包む<カム>の、無限のホラの意味を持っています。万象がアマから分化し、万象はアマに還元するというのがその原象です。
 また、すべての現象には、重合性(アワセカサナリ)が、本来の性質として受け継がれているという、「互換重合性(コトタチあるいはイマタチ)」のサトリを述べたものです。
 互換重合性の基本形の例としては、
 ● 確定性と不確定性の共存(アカ アヤのムカヒ)  (第5句)
 ● 男性・女性の配偶(サネ タチネのムカヒ)  (第3句)
 ● 膨張性・収縮性(ソコ ソビのムカヒ)  (第5句)
 ● 粒子性・波動性(ナギ ナミのムカヒ)  (第6句)
があります。このような、正反対称、互換重合という本来性は、<アマーカム>の対向(アカ アオ ムカヒ-次の、第5句参照)に由来すると、サトったのです。(「次元について」参照)。


第5句 ソコ ソギ(膨張性、収縮性、抗膨性、抗縮性)

カムナガラ
 タカマソコソギ ソコチクネ
 アカアオムカヒ アラカミチ
ウツシヒヒラキ カムナミチ

概要の意味
 「人間の目には、カタチは見えぬが(カムナガラ)、宇宙球が膨張したり(ソコ)、収縮したり(ソギ)しながらも、球の底(外郭)が長く自由に保持されている根元(ソコチクネ)は、<カム>と<アマ>との正反対向(アカアオムカヒ)によって、元のタマの形(タカマ)が、刻々に創成を続けて(アラカミチ)いるからである。すなわち、宇宙球は、新陳代謝的に原形が保たれる、統計的な存在である。」

 <ソコソギ>とは、「ソコ」はソト(外)にコロんでいく、すなわち、膨張の意であり、拡がる「底」の意にも「そこ」と指し示す意にもなります。コは九であり、コト(繰り返し、事)、トコ(互換)、コロ(転換)等が派生します。「ソコ」に対照して、「ソギ」は「収縮」の意を持ちます。削り減るの意もありますが、それは、凝縮して密度が高くなるために、外形が縮小するところから来ています。粒子が生成されるまでには、何回もソギが繰り返されるために、粒子の思念になったものを、「ナギ」と言います(第6句参照)。

 <ソコチクネ> とは、「ソコが自由に持続して、蓄えられている根」の意であって、例えば、私達は個人として「ソコ」に存在しますが、その実、肉体は時々刻々、その一部が生成崩壊して新陳代謝を繰り返し、成長・老化して行きます。精神も変化し、別人のようになることもあります。しかし、膨張収縮しながらも、その形(ソコ)は維持(チ)され、しかも自由に(ク)保たれています。いくら変化しても「私」は「私」であって、その「ソコ」は常に保たれているのです。このように、「私」なる者は、時々刻々発生消滅を繰り返しても、「私」なるカタチを保持する、というのが「統計的存在」であり、<イマタチ>の直観の相似現象です。そしてこれは、すべてのモノに普遍な相似象なのです。なぜならば、正反対向(アカアオムカヒ)のカムナミチから創成されるアラカミチにその根(ネ)があって、刻々にバランスを取っていて(ナリマハル)、膨張・収縮のチカラに対してそれぞれ抗膨性・抗縮性あるために、形状が保持されるという、正反四相(トヨ)のサトリに示されるのです。

 <ウツシヒ ヒラキ> <ヒ>はアマのヒ(玄)の意味で、アマのカミ(起源)の、カムのチカラを指します。「ウツシヒヒラキ」は、このカムのチカラが次々と発展遷移して万象を創成する、という思念です。アマの「元」は、「カム」から移されてアマ界に次元を開き、新たなミチを展開するのです。宇宙の森羅万象は、アマとカムの「アカアオムカヒ(正反対向発生)」と「カハリカサナリ(互換重合)」の「統計的存在」の相似象であり、この句はその相似象の原象を示すものです。

次元について

 「次元」は、「元に次ぐもの」というのが本来の意であり、次元が増すにつれて、「元」の分化・変遷の傾向を示すと考えられます。カタカムナ人は、<カム>からすべてが発展すると考え、<カミ>という表現をしていますが、それは、神秘思想、一神教、多神教、汎神論のどれでもありません。「ヒ(玄)」という表現を用いていても、現代人の一元論二元論や多元論の範疇には入りません。「相似象」では、以下のように「元」「次元」を考察しています。

 現象界の始元を<アマ>とする点では、<アマ>が第一次の「元」である。そして、第二次、第三次と分化展開するが、最終的には、もとの「元」に還ってゆく、循環系である。そして、アマの「第一次の元」の発現するもと、いはば真実の「元」というべきものを、<カム>とするわけである。
(中略)
 「アマが『第一の元』で、カムが真の『元』である」といっても、それは、現代人の思考する「元」とは、それこそ「次元の異なる」発想である。
 「カムがすべての元である」といっても、「一元論」ではない。「アマとカムの対向」といっても、二元論ではない。
 ここに、「正反対向(アカ アオ ムカヒ)」「互換重合(カハリ カサナリ)」という、カタカムナの物理の「独自の把握の特徴」があるのである。
 <アマ>は現象に対して「始元」であり、それは宇宙(タカマ)のことである。宇宙の膨張して行くハルハラが無限のカムであり、カムは「アマの元をヒラクモノ」すなわち、ウツシヒ ヒラキであり、アマの「元」よりも、更にもう一段カミにある存在を示す言葉である。しかも<カム>は、刻々に、<アマ>と互換象」である、という直観の論理は、従来の科学の論理にはなかったものである。この問題は次号に検討するが、ムスとかワクとかの(例えば、虫がワク等)表現に残るカタカムナ人のサトリは、現代科学の元素不変の、法則の範疇には入らぬものである。

「相似象」第5号 第1章 139ページ

第6句 ナミ ナギ(粒子性、波動性)

 以下の句は、万象における、粒子性と波動性の重畳状態、および統合性と微分性のサトリと、その視点からの現象の原象を示すものです。

カムナガラ
 タカマアラタマ アマツナギ
 タカマココゾル アラカミチ
ナギナミアガム カムナミチ

概要の意味
 「人間の目には、カタチは見えぬが(カムナガラ)、宇宙球に新生される天体(アラタマ)は、アマの始元量が個々の球(アマツナギ)を統合して(ココゾル-ことごとく、こぞって)創成しているのである(アラカミチ)。そして、粒子性(ナギ)と、波動性(ナミ)、すなわち、統合性と微分性、全体性と個々性の正反性が、互いに調和し、重合された(アガム)状態で吊りあっている。」

「相似象」第5号 139ページ

 <ナギ ナミ アガム>の、
 「ナギ」「ナミ」は、後代になって、古事記に記された神名(イザナギ イザナミ)として伝えられるようになりましたが、そのもとは、一つのモノに必ず備わっている、相反する性質(タチ)に対する直観のサトリでした。一つのものは本来、その中に、
 ナギという「凝縮し、静止し、統合しようとするタチ(粒子性)」と、
 ナミという「拡大し、膨張し、分化しようとするタチ(波動性)」とが、
重畳状態(アワセカサナル)として共存し、互いに換わりあって(カハル)現れる、という性質を持ちます。これがアマから受け継がれ、静的に捉えられた場合の状態が、ソコソギ(膨張収縮)です。
 
 <アガム>は、親和重合を表す古語であり、ここで意味するのは、ナギ性、ナミ性の親和のことです。「ナギ ナミ アガム」とは、本来、人間にとって最も望ましい「正反親和」のスガタを述べた言葉だったのですが、後代になって、「イザナギ、イザナミの二神を崇拝する」という意味に解されるようになったのです。


第7句 ナナヨツギ(七周期運動のサトリ、トコの思念)

カムナガラ
 タカマトコクラ ナナツヨギ
 タカマヤスハラ アラカミチ
ワカレフタカミ カムナミチ

概要の意味
 「人間の目には、カタチは見えぬが(カムナガラ)、宇宙球の互換重合の座(トコクラ)は、「7」の数に規制される周期性(ナナヨツギ)によって保たれている。宇宙球が安定持続(タカマ ヤスハラ)して、さまざまのアラカミチに分かれていくのは、<カム>と<アマ>すなわち、無限界と原象界の二つの源(フタカミ)に基づく、カムナミチにある。」

「相似象」第5号 139ページ

 <トコクラ>
<トコ>は「トモにコロガル」という意味で、「互換重合」の思念です。「トコクラ」は、「トモにコロガル場」であり、これから「床」の意味となります。また、二次的な変遷により、相反する逆性の互換重合(カハリ カサナリ)によって、宇宙が永久的に保たれるということから、トコシヘ(永遠)の意味となります。

 <フタカミ>は、二つの起源(カミ)のことで、天然自然界の起源である<アマ>と、それを産む起源である<カム>の二つを指します。この二つのカミの対向(ムカヒ)によって、万象が発現し、変遷するのです。

 <ナナヨツギ>は、宇宙の変遷が、7年、70年、...…、700万年、7000万年、……のような、「7」の周期で世代が継がれて、繰り返されているという直観です。

 この「7周期運動」の基底となった直観は、<カム>から<アマ>へ、<アマ>から<カム>への変遷が、「4」対「3」の数に規制された、周期性運動であるというサトリにあります。楢崎皐月によれば、この比は、おそらく長期の観測経験から、統計的な実測値から得られ、それが、宇宙の諸天体の恒常安定の実相であると洞察されたのであろうと思われます。

ナナヨツギの変遷

 周期性として「7」の数が出るのは、「8」が極限安定の数(ヤタノカガミ―極限率)であり、モノの運動は、この安定状態を求めて、「7」で変化するためだと推察されます。「8」の安定状態は、部分的、統計的に現れることがあっても、全体が安定停止することはあり得ず、運動系としては、常に「7」の規則で繰り返されるのです。例えば、見かけ上安定静止している(8)ように見える私達の身体も、刻々に新陳代謝を繰り返していて、その変遷のリズムには、ナナヨツギがあるのです。そのサトリは、ヤサカノマガタマの7種類の単玉によって、表現されています。

 「7」の変遷を意味する言葉の例
 お七夜、七五三、初七日、四十九日、七フシギ、七変化、七光、七生、
七難、七福神、七堂伽藍、七五調、七曜日、七音階、光の七色等々
  

第8句 分化、統合、還元(永遠性のサトリ)

カムナガラ 
 タカマトヨクモ タカマツロ
 アマタマツツム アラカミチ
アマネコトホグ カムナミチ


概要の意味
 「人間の目には、カタチは見えぬが(カムナガラ)、宇宙球の外域の豊かな雲(タカマトヨクモ)は、宇宙球を包むコロモのように、まつろっているもの(タカマツロ)であり、アマ始元量や、アマによって成り立つ諸天体(アマタマ)を包むアラカミチ(創成の場)である。そして、アマ始元量によって成り立つすべての物体は、あまねく、分解統合を繰り返す(コトホグ)。無限寿命の源泉(カムナミチ)によって、発生している。」

「相似象」第5号 147ページ

 <マツロ>は、コロモ(衣)の古語で、マツロフの意味を持ちます。

 <コト ホグ>も、第6句の「アガム」と同様に、後代には神秘思想的な用語の「言祝、寿ぐ」と変遷してしまいましたが、本来は、「始端・末端的な極限は、循環している」というサトリを表すものです。これは「永遠性」とは有限寿命の変遷であるというサトリを表わしています。
 「コ」は9、「ト」は10であり、「コト」は、繰り返しの思念を持ち、「統合された末端」の意味となり、一応の落着と、再度始端に戻っての繰り返しをも意味します。「...…すること」という言い方も、その派生と考えられます。

 また「ホグ」は、正反の親和状態(ホ)と、自由にする(ク)という、「統合と分解」の思念ですが、「ホグス」になると、分解する意味となります。

有限と無限、永遠の創造(アラカミチ)                   (「カム」について 3)

 有限の宇宙球<アマ>を包む「アマのコロモ」である<カム>は、アマの外郭に無限に拡がっています。
 「生命」の実相は<イノチ>であり、その実態は、<カムナ>が、<アマナ>と共役して、生命体の細胞に潜在しているものであります。
 有限の<アマ>(宇宙球)が、永遠に存在し、その中で万象が、それぞれの存在を保つのは、<カム>と<アマ>を通じる<カムナミチ>によって、刻々に、生成・消滅が生じ、新陳代謝が繰り返されているからなのですが、その点では、私達の身体、地球、諸天体、宇宙球も、また、地球上のあらゆる生物や原子、電子までもがすべて相似象であって、「永遠の生命」の真相は、このような状態が無限に連続するスガタ(アラカミチ)なのです。
 直観物理では、<カム>は、<アマ>のソトハラに、グモのように拡がり、「チカラの壁」のようにアマを包んでいて、そのチカラが、アマ界でのイキ、イブキとなり、万象を発現して、イノチ(生命現象)やイキホヒ(エネルギー)となると示されています。これはおそらく直観能力がサトリ得る限界の現象であろうし、それが<カムナガラノミチ>なのです。
 神話のカミの裏には、これほどの深いサトリが潜在していたのです。
 <カム>は、<アマ>のソトハラにあるということは、大きな宇宙を包む外郭であると同時に、カムナ―アマナの共役によって、私達のイノチに、刻々と働きかけるチカラのヌシなのです。現代科学(医学)では、身体の臓器、組織、神経等の仕組みや働きについて、その生理現象のシステムやメカニズム等を、詳細に把握しています。しかし、そのような仕組みは何によって造られ、機能するのか、という生命現象の本質を捉えることはできません。
 同様に「夢」や「心霊現象」にも、<カムナ―アマナ>が関係しているようですが、やはり、その現象が生じる原因は何か? という、現象の本質を捉えることはできません。
 しかし、直観物理では、その本質は<カムナ―アマナ>の共役である、としているのです。
 生物は、食物がなくても生きながらえるけれども、必要な睡眠がとれなければ、生命は維持できません。睡眠は最も重要な、イノチを保つ条件なのです。
 しかし、その睡眠中に何が行われているのかについて、私達はそれ以上詮索しても把握することができません。カタカムナ人はそのことを直観し、アリのママに表現したのが<カム>でした。
 後世、その意味は、外来思想と混合して様々に変態されながら、しかし、日本語に関する限りは、常に「神」が<カミ>の思念に重なって、「そのカミ(起源)のカムに帰ろうとするチカラ」となってきたわけです。

 少なくとも日本人の「神」や「神秘」の問題を、あくまで解明しようとするなら、カタカムナの<カミ>まで遡るべきであろう。そしてそのカミとは<カム>であるという関係を、ここまで認識する必要がある。そして、それは可能である、ということを、最も鮮やかに示しているのが、<カムナガラノミチ>である。
 ここまで明らかになれば、一般の神や仏の問題はおのずから片付き、これ以上<カム>をあばこうという妄念も起こらない。「考へる」ことが、「カムカヘル」ことだ、という思念から出ているこの言葉のナリタチを、日本語を話す日本人は、良く味わってみるべきであろう。
(中略)
 学問、思想、芸術や、生活の全般にわたって、あらゆる分野に分化展開された人間の文化は、およそ考えられる限りのこころみもほぼ出尽くし、「創作の道」はゆきなやんでいる。
 カタカムナ人のサトリは、やさしい和語でつづられ、外来の文物を偏重するクセのついた一般の日本人には、何ら魅力を感じられぬかもしれない。しかし彼らが取り上げていた問題は、現代の我々が直面している問題と別物ではなかった。古今東西の哲学や宗教でも、いつもとりくみ、そして、未解決の問題であった。
 猿や鹿の世界にも、ボスやリーダーがあるように、人類にも、ピンからキリまで差がある筈である。カタカムナの世界にも、高度のサトリを残す人もあれば、いくらサトされても容易にわからぬ人もあったであろう。しかし、「誰のイノチにも高下の別はなく、万象は等しく<アマ>の変身である」という教えは、誰にも納得されたに違いない。そして、後代の「神」や「仏」も、<アマ>に置き換えれば人類に普遍のものとなるのである。私達も、人さまざまなスガタをあるがままにみて、そこにアマの相似象を認め、他人の信ずるものを、もっぱらに否定するのでなく、ただ、その中から「カミへ」「カミへ」と昇華する『日本的思考』をマトモに生かしてゆくべきであると考えている。このような態度が、一般の「修養」の観念や世の「常識」と、もっぱらに争わぬ、カタカムナ人的なミチというものであろう。私達が、さまざまの哲学、科学、宗教を遍歴しつつ、常にそのカミ(起源)を求めつづけ、遂に、我々日本人にとってさかのぼり得る最も「カミ」と思われる、カタカムナの文化に至りついたのも、この『日本的思考』のたまものであり、この上古代人の意見を最も尊重すべきものと判断し得たのも、彼らの残した言葉に、ただならぬ、そして正直な「共振」を覚えたからである。その共振が、単に積極的な個人勘定に留まるものでない所以を、読者は、カタカムナ文献の解読内容によって、どうか充分に検討していただきたい。

相似象 第5号 155ページ

 カタカムナのサトリは、カタカムナ人の提唱した哲科学ですが、それは、アマの法則のサトリなのであって、人間のアタマでこしらえたものではありません。しかも、それはアマが定めるのではなく「アマーカムのムカヒ」から出るものなのです。人間にとってできることは、「このルールをサトル」ことのみであり、その上で、このルールに適う(相似の)めいめいの「アラカミチ」を切り開くことなのです。あらゆる方面に分化発展した学問芸術も、マトモなものは、知らず知らずにこのルールに適っています。
 アマ-カムの対向がすべての「原象」であり、人間の営みのあらゆる「価値」の規範、「」の基準、「創造」の基本がここにあります。ここでは、人間の「文化の真の成熟」はこのような方向でしかあり得ぬ、という示唆が成されているようです。

宇宙の万物万象に現れる相似象

 宇宙の万物万象には相似の象(カカミハラ-ヒトツカタ)があります。それは、天然自然(アマカム)の成り立ちに、物性としての原型があるからです。また、日本語の起源は、天然の相似象として創造されています。

 <カカミハラ>は、宇宙の万象万物のカタチは、そのカミ(起源)の天然(アマーカムの原象)の成立ちをコピーするように、刻々に正反(ハ)に現れる(ラ)ものであるゆえに、万象万物はすべて相似象であるという意味。
 <ヒトツカタ>も同様に、万物万象の個々(ツ)は、ヒトしく天然(アマーカム)の始元(ヒ)から、アマウツシされて(ト)、分離生成(タ)したもの(ツ)であるゆえに、ヒトツのカタ(相似象)を持つという意味。

以上、『「相似象」第5号 第1章 カムナミチ(アマ―カムのサトリ)』の要約でした。









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