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第9話 坂本直行

第一話からは目次からどうぞ

坂本直行の眼の前でくるくると回っている鉛筆は、ランダムな動きで揺れている。透明な誰かがもった鉛筆が揺れたり上下に動いたり、器用な指先の上でくるくると回るのと同じ動きで、それはなにか見えない紐にぶら下がっていたり、透明な棒の先にくっついた状態のものとは違った動きをしていた。

 不自然な回転で、ときにそれは床に落ちて、すぐに誰かに拾われるような動きで、空中に浮かび上がり、また直行の目の前でくるくると回る。

 どういうことだろうか?なにかトリックがあるのか?磁石とか、細いワイヤーが繋がっているとか、手品の手法と同じだ。

「近づいたらなにか見えるかもしれない。」

そう直行は考え、鉛筆に顔を近づけた。
 突然フロイドが目の前に姿を表した。

「そんな馬鹿な」という考えが直行にまず第一に浮かんだ。
 AR共有モードは解除したままだ。他人のファミリアは見えないはず。そしてファミリアは視野のARレイヤーに合成処理(オーバーレイ)されたイメージでしかないのだから、実際に物質に干渉する、つまり触ったりすることはできないはずだった。

けれども現実には、そこにフロイドの姿がはっきりと見て取れた。
彼には影もちゃんとある。いや、そこにいるわけではないのかもしれない。
「そうだとも、この回っていた鉛筆だって実際にある物質ではないのかも」

 触ってもすり抜けるだけのARレイヤーに描写された極めて高品質な画像なのかもしれない。直行はそれを確認するために、フロイドの体を触ろうと近づいた。

 フロイドはなにか知っているような表情をしてフロイドの手が自分に触れるのを黙って眺めている。恐る恐る手を伸ばす直行、そのままじっとしているフロイド、鉛筆を回す手の動きが止まる。

 手のひらをゆっくりと開きながら直行は指先に神経を集中する。

 直行の人差し指と中指の先が同時にフロイドの右腕の肘の直ぐ側のあたりに触れた。

 指先がなにかに当たっているという確かな感触、中指も触れる。感触が伝わる。小指の先も触れる、そして手のひら全体がフロイドの二の腕の表面を撫でる。

 直行の親指が最後に触れてたとき、直行はその感触が人間ではないなにか違う物質だという感覚を覚えた。

 確かなことは3つ。
 フレイドは擬似的なAR表示のファミリアではない、確かな実存として、たしかにそこにいるということ、視野にオーバーレイされたイメージではないということ、そして人間ではないし、生命を感じさせるなにかではないとういこと。

 感触は冷たい煙に触れているような、それでいて形状を持っていて、確かに存在を感じさせ、触れた瞬間指先がふわりと軽くなるような妙な抵抗感があった。

 その抵抗感が強まっていく、その強さが直行の頭の真ん中まで届いた瞬間、直行は声にならない声を出して、素早く手を引っ込める。

2058年8月16日 午後3時8分

 窓の外の気温は摂氏38.6度。湿度は67%。

 フロイドが近づいてきて直行の頬に手を添える。

「ところで君はどうして女性用の制服を着ているの?」

 直行は、視線をそらした。フロイドは続けて尋ねる。

「トランスジェンダーってやつ?君の性自認とかいうのは女性なのかな?」

 直行はシャオ・ツーの方を見る。

「確かに、君は見た目も細いし、名前はどう考えてみても女性の名前じゃない。君のファミリアも性別はないって言ってたよね。」

 そういってシャオ・ツーは窓の外に目をやる。8月の夏の日差しは室内まで入ってくることはないけれど、反射する太陽光を後ろにしてシャオ・ツーは話し続ける。

「直行っていう名前は男性名だよね。なおなら女性かもしれない、字は変わるかな、奈央っていう名前だと女性だよね。ひらがなかもしれないし漢字かもしれないね。
 君は友達に自分のことを奈央と呼んでほしいってよく言っていたよね。SIDの装着で君は新しい自分に出会った感じがしたかい?」

「何が聞きたいの?」直行は聞き返した。

 シャオ・ツーもフロイドも黙ったまま直行を見ている。

 坂本直行が自分の性別の違和感に気がついたのは、10歳になる前、初めてイマーシウムの世界にアクセスしたときだ。
 最初は冗談のつもりだったのかもしれないし、ただ単に何も考えないでデフォルトのままの設定だったのかもしれない。

 イマーシウム(Immersium)は、単なるバーチャルリアリティの拡張ではなく、感覚的な没入体験と現実と仮想の境界の融合を強調した新しい概念だ。視覚、聴覚、触覚、嗅覚など、人間のすべての感覚を完全に取り込み、エンゲージする。

 イマーシウムでは、仮想世界と現実世界の間の違いがほとんど感じられず、ユーザーは自然でシームレスなインタラクションを楽しむことができる。

 そこで女性のアバターとしてエンゲージした自分が、「女性の体を持っている」ということに違和感がまるでなく、しっくりしたというか、それがとても自然な感じがしたからだ。

リアルに戻ってきたとき彼は自分自身の肉体に違和感を覚えた。

「この身体は本当の僕じゃない」
 そのあとしばらくして彼は、男性的な衣装や小物にまるで興味を示すことがなく、世間一般に女性的だとされる服飾を選ぶようになった。両親は理解があって、まぁそういうこともあるかもしれないと、直行のしたいようにさせてくれた。

 彼の両親は彼のことをなお(奈央)とよぶようになった。衣服も女の子向けのものを買い与えたし、身の回りのものを彼の嗜好に合わせるようにして揃えた。

 この学校に入ってからもそのことを隠すわけでもなかったし、今は男性的とか女性的とかいう意識も変わってきていたので、性別によって制服を変えるということにも融通がきく。

 性別は個性の一部になっていて、男性的とか女性的とかいうイメージは人によって違いすぎていて、もはや共通項として分類不可能になっていた。それでも違和感みたいなものはあるのだけれども、それは人それぞれ違うし、気分の問題に近くなっていたのかもしれない。TPOに合わせて柔らかい感じとか、硬い感じというのは、あったけれども、男性として硬いときも柔らかいときも、女性として逞しいときも厳しいこともあった。
 その日の気分で着る服を選ぶときに、今日はTシャツにするとかスーツにするとか、選ぶのと同じくらいに、自分の性を意識するときに男とか女とか性別を選ぶようなこともごく自然にあった。今日は女性的でとか、男性的とか、その時の気分で性別を選ぶ。その日の気分によって選択肢が変わることもそう珍しいことではなくなっていた。

 人を愛することとか、家族を持つとか、20世紀以前の価値観も一部残っていたけれども、一夫一妻制にこだわることも割合的には以前ほどではなくなっていた。

 それでは家族は子供は誰が育てるのか?

 その答えはすでに紀元前に出ていた。

 古代ギリシャの偉大な哲学者プラトンは「国家」の中で
「理想的な国家においては、子どもたちは共同体全体によって育てられるべきだ」
と主張していた。ほとんどの国で少子高齢化が進み、大胆な政策によって国家は国民生活、人口問題に介入することになった。
 最初に導入したのは三つに分裂したそれぞれのアメリカだった。

 2038年1月17日に赤いアメリカと呼ばれるアメリカ南部連邦、2月25日に青いアメリカのアメリカ北部連合、そして6月12日にグレーアメリカ、アメリカ中央共和国がそれぞれ国家としての独立を宣言、政府を樹立し、それぞれの国で「全国児童保護法」(National Child Guardianship Law)「国家的育児義務法」(State Childrearing Duty Act)「全市民共同養育法」(Universal Civic Childrearing Act)などの法律が制定された。
 子供を養育するのは国家の役目であり納税に対する義務だと、どの国も同じように主張した。
 日本でもそれに続くように2039年に「全国児童保護法」(National Child Guardianship Law)が導入されることとなった。

 この法律では子どもたちは生まれた直後に親から引き離され、国家によって育てられる。もちろん、家族がそれを望まなければ、親たちは自分で子供を育てることができるが、税制的な制度的なメリットが少なかった。そのような立場を取るものは、富裕層や宗教的な思想によってそのような立場を取るものに限られた。

 この学校は、そんな経済的に豊かな地位をもつ者たちが通うシステムの上に成り立っている。

 全国児童保護法が立法されて20年近くが過ぎようとしている。国家によって育てられるというコンセプトにそって、ほぼ全ての子供たちは「Nation's Nurture Academy」(国家養育学院)や「Public Guardian School」(公共保護者学校)に通うことになる。

 桜花学院のような学校に通うものの数は僅かだった。

 直行の生まれた2044年はこの法律が制定されて5年後、2055年には、第一期の国家養育学院に入学する予定の子供の数は全国で約65万人だった。
 一方、直行のようなバンディズムの思想の受け皿となる学校は、少なく。日本の場合、秋田県、島根県、高知県、徳島県、青森県、山形県、鹿児島県、石川県、そして福岡県の九箇所に限られていた。

 桜花学院はその日本に九つしか無い血脈主義、すなわちバンディズムを至高のものと考える人達の受け皿の一つだった。

 どの学校も公立ではないものの正式に国から認められた教育期間として存続していた。

 どの学校も前世紀的な価値観を重要視していた。男は男らしく女は女らしくというように、明治、大正、昭和の時代に重要だと考えられた価値観を校則に含ませる運営をしていた。日本の伝統的な価値観という、実際は、自分たちに都合の良い価値観にあわせるようにして。
 ただ、その中でも福岡にある桜花学園だけが、性別にについては、21世紀的な価値観を取り入れ性別や性差については、オープンな傾向にあった。

 とはいえ、そうは言ってもやはりバンディズムを主軸とした教育制度で組み立てられていたため、実際のところ、学校に通うもののなかでは、ジャンダー感が前世紀の異物でもあったのだ。

 坂本直行は、その容姿によって苛められたり阻害されたりということはなかったのだけれども、やはり学校では浮いた存在になっていた。

 直行は、どうしたって、この学校には溶け込むことができなかった。

 シャオ・ツーはそのことについて聞いているのだろうか?彼はいったい僕に何をしたいのだろう?親しくもない、クラスだけが同じだけでほとんど口を聞いたこともない彼は、僕の「何」を知っているのだろうか?
 それよりも、彼は、前からこんな感じだったろうか?夏休み前の彼は、14歳にしては幼く小学部の生徒のような印象があったし、話し方だってもと子供っぽさがあったような気がした。どうして僕にいろいろなことを聞こうとしているのだろうか。

「自分を再構成することができるとしたらどうする?
生まれ変われるんだ。文字通り新しい肉体に作り変えるっていうことができるとしたらどうする?」シャオ・ツーが言う。

直行はその質問の意図がわからなかった。
 シャオ・ツーは続けて話す。
「SIDには本当の力がある。それはまだ隠されているっていうよりも、知られていないんだ。本当に一部の、ほんの一部の人間にしか実際関係ないことだしね。」

 シャオ・ツーは話続ける。直行の意見や考え方を知りたいわけでも、現実に必要なわけでもなかった。
「SRNSって知ってる?そうSID関連神経過敏症候群(SID-Related Neurohyperexcitation Syndrome:SRNS)実際は、SIDの副作用として稀に見られる症状だとされている、まぁ病気というか副作用だよね。
 発病率は低いもんさ。けれども、実際のところそれは本当に一部の人のだけに出てくるある資質によるものなんだよ。」

「ある資質?」と直行は疑問を口にする。

「この2020年から2058年までの30年の間に、大きな変化があったのは君も知っての通り。

SIDの登場、核融合エネルギーの実用化、常温常圧超伝導体の発見、量子コンピューターの実用化、そしてAIの発達。未来の技術だと考えられたものが一斉に花開いたと言えるよね。で、その中心にあるのがSIDCOMなわけだ。」

シャオ・ツーが直行にまっすぐ近づいてくる。

「直接脳に接続して情報をやり取りできる。このSIDCOMの技術っていうのはすごいことだよね。実際の所、言葉を必要としないコミュニケーション手法を作り出したというのは、人類にとっても大きな進歩、あるいは進化を作り出したともいえるのかもしれない。」

 シャオ・ツーが直行に口づけする。それと同時に彼の考えていること意識・感情が直行の脳に直接流れ込んできた。

 SIDは、人間のコミュニケーションに新たな章を刻み込んだ。特に過去の10年、20年における変革は、それ以前の時代とは比較にならない。100年前なら何世代にもわたって徐々に進展していた技術の革命が、今では子供の成長を待たずに実現してしまう。かつてない速さで世界は変わっていく。
 変わっていくんだ、すごい速さで、何もかもが変化していく。

 大人たちは自分の経験を活かすことができない。3年もしないうちに、もっといいやり方や道具が登場してしまうことが常態になってしまったからね。

 だから、この猛烈なペースに、大多数の人々はついていけなかった。ほとんどの人は戦略的な思考を捨て、AIの補助を受けつつ、刹那的な生き方を選んだんだ。

 倫理観、正義感、価値観、長期計画などの概念は、この20年間の時代の変化に翻弄され、意味を失いつつある。

 変化の中で、人々に求められたのは信念と誠実さ、そして自己の不変の核を持つ強さでだった。時代の流れが激しく変わりゆく中で、一人ひとりが自分だけは絶対に変わらないという確固たる意志を持つことが、今や貴重な美徳となっていたし、成功した人はほとんど、そういう性質をもっていたからこそって感じだった。

 けれども、そうはいっても、ほとんど多くの人は、確固たる自分なんて持っていなかったし、「信念」という確固たる自分を持ち合わせていなかった。

 結局は自堕落て手抜きでいい加減な生き方を選ぶ人ばかりだったのさ。

 そして世界はもっと多くのエネルギーを必要とした。

 いかに効率よくエネルギーを利用できるかも大事だった。

 どうしたってエネルギーが必要だ。

 21世紀の後半に入って重要な価値観は「エネルギー至上主義」になった。単に燃料や電力といった物理的なエネルギーだけの話ではなかったのだ。

 この時代、エネルギーは経済、政治、文化、さらには人間関係にまでその影響を及ぼすようになっていた。人々の思考や価値観はエネルギーの効率的な利用と供給に集中し、それが個人の成功や社会的地位を左右する要素となっていた。

 エネルギーの供給が不足する地域では貧困と不安が増加し、その結果、教育や文化の停滞、さらには犯罪の増加といった社会問題が発生していた。貧困の原因は経済力のあるなしではなくエネルギーが豊かであるかどうかの問題だと考えられていた。その証拠に一方で、エネルギーの供給が豊富な地域では経済発展が加速し、人々の生活水準が向上していた。

 このエネルギー至上主義の時代において、新しいエネルギー源の発見や利用は国際的な地位や影響力をもたらす要素となり、国家間の競争と連携が激化していた。

 個人レベルでも、エネルギー効率の良い生活様式や技術への追求が、社交やキャリアの成功に直結するようになっていた。エネルギーに対する敬意と理解、そしてその賢明な利用は、新しい美徳として認識されていたのだ。

 しかし、このエネルギー至上主義の下でも、人々の間に格差が広がり始めていた。エネルギーを効率的に利用できる者とそうでない者との間で、経済的な隔たりが生じ、社会的な緊張が高まっていた。

 そのような背景下で、多くの学者やアーティストたちは、エネルギーの役割とその人々への影響について問い直し始めていた。彼らは、エネルギーの供給と利用だけに焦点を当てるのではなく、人々の心と魂にエネルギーをどう注入するかという問題にも取り組んでいた。

 そうした中で、新しい価値観や文化が芽生え始め、エネルギー至上主義がもたらす可能性と限界、そして人類が真に求めるべき「エネルギー」についての探求が進んでいったのであった。国の大きさや規模、抱える人口によって政策や主義主張スローガンにはもちろん違いがあった。ゆるいものから過激なものまで様々だ。
 新しい概念もいくつも登場した。エナジースプレマシズム (Enasupremacism)、エナジーセントリズム (Enacentrism)、エナジードミナンスム (Enadominanism)、エナジーエッセンシャリズム (Enaessentialism)、エナジープライマシズム (Enaprimacism)、エナジーファーストロジー (Enafirstology)、Powerism(パワリズム)、ResourceCentrism(リソースセントリズム)Fuelocracy(フュエロクラシー)、Vigorism(ヴィゴリズム)、Dynamoism(ダイナモイズム)、Forceism(フォースイズム)、Thermocentrism(サーモセントリズム)、Voltarchy(ボルターキー)、Motiveism(モーティブイズム)、Impulsism(インパルシズム)。数え上げるときりがない。

 かわったところだと「Emotivism(エモティビズム)」なんていう主張もあった。愛もエネルギーの一種みたいなものだと考える人たちもいて、人間の感情や情熱が、物理的なエネルギーと同様に、社会の動力となりうると信じる人達もいたのだ。
そこまでいくとちょっとどうかと思うけれども、変化が激しいからこそ、人々は変わらないもののなかに価値を見出すようになっていた。

 シャオ・ツーの唇が離れる。直行は自分が長い夢を見ていたような気持ちになっていた。実際は数秒唇を重ねただけだったのに。

 フロイドが二人の間に割り込んで言う。

「SID-OSについて知っている?」さっきから質問ばかりだ。

フロイドに質問させているのは君なのかい?シャオ・ツー。

「クリプトビューワーズって知ってる?君の、いや君たちのSID-OSは正式版じゃない。クリプトビューワーズっていうサードパーティーのOSをもとに開発された独特なOSだ。」  

 フロイドの顔が近づいてくる。ただのファミリアのはずなのに、実存感がありすぎる。本物の人、大人の男性、ものすごいイケメン、直行は自分の心臓の鼓動が早くなっていることを感じる。そして聞き返す。

「そうなの?僕らのは正式版。ネイティブOSじゃないのかい?」

 直行は最初のログイン時のことを思い出す。あのとき、はじめてSID-COMのサービスアカウントにアクセスしたときに、SIDCOMのロゴがあったし不自然なところもなかったように思う。

 フロイドは視線をおよがせる直行に向かって言う。説明口調で。

「サードパーティー製のOSだって初期設定アカウント登録にはSID-COMのデータベースにアクセスするよ。
 起動画面はほとんど同じだ。違いは、UIにはほとんどない。
違うのはその裏側、見えない部分、意識できない、気が付かないところにある。つまり、バックドアやリミッターカットの設定がされていてもおかしくはないってことだ。
 クリプトビューワーズは、デフォルトの組み込みOSじゃないってことだけは確かだよ。
 それにもっというと、君のSIDのBMIはSIDCOMのマイコSID(マイコ(Mycos)はギリシャ語で菌類を意味する単語)じゃない。もっとヤバいやつだ。
 そしてそれは、君だけじゃない。それは僕も同じだ。」
いつの間にかそう話しているのはフロイドではなくシャオ・ツーの声に変わっていた。

 けれども、日本でそんなサードパーティー製のマイコSIDが手に入るのだろうか。

 生態侵襲型のBMIはその性格上厳密な管理をされている必要がある。なにしろ人の中身、考えていることや価値観を丸裸にしてしまう側面があるのだ。

 ハードとしてのSIDもソフトとしてのSID-OSも厳しい要件がある。

 基本的にはGAIと同じ要件をもっていないといけない。

 透明性、倫理的な基準の遵守、プライバシーとデータ保護、アクセシビリティ、ロバスト性とセキュリティ、意思決定の説明可能性、持続可能性とスケーラビリティ、この7つだ。

 ところが、アンダーウエブに転がってるAIは、それもこの7つの要件を満たしていない。
 一番わかり易い違いは、倫理的な基準の遵守っていう部分だ。

 SID-OSに組み込まれているAIも、初期設計、いわゆる要件定義をするときに、プライバシーとデータ保護については厳しく基準が決められている。差別をしないように、透明性があるように、倫理的であるように、ブラックボックス化しないように、様々な規制がかかっている。 

 それはある意味では暴走しないように安全装置があるってことなんだけれど、全ての回答が100%正しいわけではないということを許容できるかどうかってことに繋がっている。

 設計者たちにとってそれは、未来の未知の変数をどれだけ予測し、システムに組み込むことができるか、という問題だった。全ての可能性をカバーすることは不可能だから、どれだけ人々にとって有益で安全なものを提供できるかは設計者に問われている、そう設計者が決めていることになる。

 人間の脳を直接ネットワークに接続するという壮大なコンセプトは、その技術的な困難さだけでなく、倫理的な問題も多数孕む。潜在的な危険を取り除くために、無数の規制と法律が必要とされた。

 プライバシーとデータ保護の規範は、開発の初期段階で組み込まれ、最優先された要素となっていた。しかし、過剰な保護が、システムの効率を下げ、人々の生活の向上を阻害する恐れもあることは彼らもわかっていた。

 設計者たちは、テクノロジーの恩恵を最大限に引き出し、かつ、個人の自由と権利を損なわないように、微細なバランスを取らなければならなかった。

 今から30年以上も前
「私たちが目指しているのは、ただの効率的なシステムではない。人々の心に寄り添い、社会に貢献するシステムだ」
 と、開発者であるマイケル・ウォンは、開発チームに語ったという。
「それには、人間の感情、価値観、文化などを理解し、尊重する深い洞察が求められる。我々は単なる機械を作るのではなく、人類の未来を作り出すのだ。」

 自分たちの作業は、単なるプログラミングにとどまらない。人間の存在そのもの、そして社会という複雑なシステムに対する理解と敬意が求める必要がある、と。

 けれども、悪意のある技術者、いや悪意ではない、無邪気さというか、倫理観の掛けたエンジニアもいたのだ。つまり、技術の枠組みとその潜在的な可能性に夢中になり、人々の権利や倫理的な価値観を軽視した開発者もいた。

 彼らにとって、技術は単なる遊び場であり、その力と可能性を極限まで追求することが最優先だった。彼らはSIDの開発において、規制や法律の狭間で新しい道を切り開いていくことに興奮していた。そして時には、プライバシーや個人の自由を犠牲にしてでも、システムの性能を高めようとした。

 これは、無邪気さというよりもむしろ、ある種の盲目的な情熱だった。人々の生活を変え、未来を切り開く技術に対する純粋な愛と興奮が、彼らの道徳感覚を鈍らせてしまっていた。

 そういった開発者たちとの対立は、プロジェクトの進行中にもたびたび表面化した。マイケル・ウォンの右腕であるドクター・イリアナや他の倫理を重視する開発者たちは、彼らの野心と情熱を封じ込め、制御する必要があった。

「私たちは新しい世界を作り出している。だからこそ、その世界がどうあるべきか、何を大切にすべきかを忘れてはならない」とドクター・イリアナはチームに語った。

 しかし、それでも衝突は避けられなかった。ある開発者は、プライバシーに対するルールを故意に破り、非倫理的なテストを行ったことが露見。この事件は、チーム全体の信頼を揺るがせる危機となった。

 最終的には、プロジェクトの進行と倫理観の間での厳しいバランスを取りながら、SIDは完成へと向かって進んだ。しかし、この一件は、技術が人間の道徳や倫理にどれほど影響を及ぼす可能性があるのか、という問題を明確にした。

 未来の技術開発における教訓ともなり、人々が科学と技術の進歩を追求する際に、人間性と倫理を常に念頭に置く必要性を改めて強調する出来事となったのだ。

 そして、チームは分裂し、いろいろな国家の下で、いろいろなSID-OSが作り出されることになった。

 フロイドが、直行に顔を近づけて言う。

「この世界は分断されている。実際のところSIDはただの入出力デバイスに過ぎない。
もちろん一番のユーザー数を誇っているのはSIDCOMだ。
 この世界はSIDに接続された人間の脳を記憶装置として利用しながら仮想化したデータベースを作り上げている。人間の頭脳自体がネットワークを形作って一つの生命体のような仕組みとして存在しているんだ。
 SIDを装着した人が近くにいれば、その脳が、近くにあれば、電源もコードも不必要だ。生態電流を利用して互いに情報をやり取りすることができる。街のあちこちには中継装置が設置されていて、人の頭脳は常にネットワークに繋がった常態が維持されるようになってる。

 OSが違っていても、通信するだけ、情報をやり取りするだけなら、互換性もあるし、問題もほとんど無いと言える、実際のところSIDCOMという組織がなくてもSIDの利用はできるしそのリソース、つまりは誰かの脳のなにかスペースのようなものは共有することができる。
 まぁ、法的なリスクとか、プライバシーの侵害とか個人情報保護の観点がどうだとか、その他の問題もいろいろあるみたいだけれどね。
 ただいずれにせよ一社独占されるってことはやはり多くの人には耐えられないことだし、独占というのは、どうしたって問題がでてくるものだ。それはそれで品質や安全性の問題もあるだろうし。
 とにかく人間はできる限り市場が独占されないようにするものだ。自然科学的、生命科学的にも単一の種しかいない種は弱くなってしまう。多様性っていうのはやっぱり大事なんだよ。そんなわけで、君たちの頭の中にあるやつはスペクターマインドっていうSID-OSを採用したシステムだ。

「スペクターOS?」

以前調べたことがあることを直行は思い出した。ロシアで開発された、アレックス・ポフマンという人間が開発したといわれるOSの名前だ。直行は話を続ける。

「ああ、それは聞いたことあるよ。それって、確かクラウドベースのOSで、P2P型のデータ転送を利用してセキュリティーを高めるためのものだよね。一部のプログラマーやハッカーの間では有名らしいけど、本当にそのスペクターマインドってOSが頭の中に入ってるの?」 
 フロイドはしばらく沈黙し、それからゆっくりと頷いた。

「君たちの頭の中のやつはスペクターマインド。個人情報を極度に共有化する方向に強化されてる。人の意識を共有することに特化していて、他人の脳を覗き込むことが比較的にできてしまう。」とフロイドが言った。

「それも聞いたことがある。他人の記憶や思考にアクセスすることができるとかなんとか。」
「ああ、それが事実だ。極度の透明性と共有化。スペクターマインドは、人々の心と心を繋ぐ新たな道を開いている。個人としての壁が低く、人々が他人の考えや感情、経験に触れることが容易になっている。もちろん、それには慎重な調整と倫理的な配慮が必要だが、このシステムのポテンシャルは無限大だ。」フロイドが映画の俳優っぽい口調でそういった。
 この誇張した芝居がかった言葉遣いはファミリア独特のもので、たしかに人間のそれとは違った印象を直行に与えていた。

「でも、それってプライバシーの問題とか、悪用される危険性はないの?」と直行が尋ねると、フロイドは少し目を細めた。

「確かに、その懸念は理解できる。だから一般に流通しているスペクターマインドの中には様々なフィルターと調整機能が組み込まれている。他人の心を覗き込むことができるのは、相互の同意がある場合だけだ。そしてその共有の深さも、各個人がコントロールできるようになっている。」

 とフロイドは答えた。続けてシャオ・ツーが話しはじめる。

 「僕らの中に入ってるスペクターはちょっと違う。特別なカスタマイズがされていてフィルターだの調整機能だのを省いている。不必要なスロットリングも流通許可を得るために設定されたデグレードも、そんな規制や制限が全て省かれてしまっている。
 もちろん、装着してすぐにそういう機能のすべてをつかいこなせるわけじゃない。歩いていどの慣れと、そして、相性、それが脳内のシナプスなのか考える指向性なのか、個性とか正確とか、性質?そういうのが関連しているみたいで、僕の場合、それがきっちりとハマったって感じだったよ。」

 シャオ・ツーは、そう言ったあと、目をゆっくりと閉じて、何かを思い浮かべるような表情を浮かべる。大きくゆっくりと息を吸って、ため息をつくようにして言った。

「実はこの夏休みに一時的に実家に返っていたんだ。SIDの装着施術を受けたあとでねね。そこで父と母のSIDを初めて交わった。

 交わったって表現わかる?交感したっていうことなんだけど、一方的にだけどね。

 両親のSIDはディファクトスタンダードのSIDだった。

 スペクターSIDは、ほぼ無意識にアクセスしたSIDデバイスをクラッキングしてしまう。

 クラッキングしてしまうんだ、意思のあるなしに関係なくね。

 ファミリアを交感したってことなんだけれど、そのときに彼らの本当の姿がわかった。

 それまでは彼らは僕の父親と母親だった。けど今の僕にとっては彼らだ。親とは彼らを呼ぶことはできないし、よぶこともたぶんない。

 彼らに育てられて、八年くらいの間だったけれど、その間はずっとお父さんとかお母さんと呼んでいた。そのような間柄だったし信頼感や愛情のようなものもあるような気がしている。もちろん僕自身が彼らの本当の子供じゃないことは知っていたし、血の繋がりの無い、本当の親子ではないことは知っていた。彼らに引き取られたのは五つになったころだったからね。
 そう、彼らは自分を本当の子供のように育ててくれていたんだ。

 僕も、本当の父や母だと思って接していたし、そう、実際のそういう精神的な絆のようなものだってちゃんとあると思っていた。」

 シャオ・ツーは視線を遠くにやって、遠い日々を思い出すようにしているように見えた。少し目に涙が滲んでいるようにも見える。

 そして、彼は続ける。
「けど違っていたんだ。彼らは違っていた。そう、彼らは僕の本当の家族ではなかったんだよ。彼らが欲しがっていたのは家族の絆とか、そういうのじゃなかったんだ。

 彼らが欲しがっていたのは僕の脳そのものだったんだ。」 

「どうして、そんなことが、わかったの?脳を欲しがってるとか」と直行は聞いた。

 シャオ・ツーは残念そうに答える、

「彼らは、自分たちの頭脳が、彼らの思考が、彼らの記憶がクラッキングされたことに気づいてなかった。

 スペクターOSが機能を前回にしているときに、他人の脳は、デフォルトのSID-OSは、全く無防備だった。」

 僕のフロイドつまりファミリアは、両親のいろいろな情報にアクセスして、最善の行動を提示した。

「殺される前に殺さなければならない。」

 直行はその言葉が信じられなかった。誰かを「殺す」「殺さねければならない」というような会話はSIDのファミリアにはありえない提案だった。AIはそのような言葉、つまり倫理的に問題があるような回答をしないはずだった。
「それはスペクターOSのせいなんだろうか?そして僕の頭の中にもそれが入ってるってことなのか?」「それって違法なOSってことじゃないのか?」そんなことが、直行の頭の中でぐるぐると考えが駆け巡る。

「両親を殺すこと、流石にちょっとショックだったけれどもね、」
 そういってシャオ・ツーは寂しそうに微笑んで言った。

「僕は、計画を練ってそして実行に移した。一昨日のことだよ。ふたりとも事故死した。事故に見せかけただけなのかもしれない。思っていたよりずっと簡単だった。彼らは全く用心していなかったし、まさか僕がそんなことをするなんて思っていなかったはずだからね。

SIDが違法品で良かったと思ったのは、その時が初めてのことだったんだよ

自動運転制御の自動車を事故に合わせるなんて、簡単なことだったよ。

スペクターは優秀なOSでフロイドは見た目に似合わずその環境で沢山の知識を持っている。フロイドがすべてを段取りしてくれたんだ。どんなことをしたのか知りたい?」

直行は大きく頭を横に振った。

「まぁ聞きたくはないよね、聞いたってそう面白いことじゃないし」とシャオ・ツーは静かに言った。

「この学校にいるものは、みな殺される。肉体的には死ぬわけじゃないけれども、記憶や人格が上書きされて、今いる僕たちは消えてしまう。彼らの非合法的な若返りの結果として、肉体を明け渡すといってもいい。

 この国では、いやこの国だけじゃないな。SIDを通じて、自分自身の記憶を相手に渡すことができるようになった。なってしまった。そしてその技術は人格そのものを相手に送り、そしてその肉体を自由に操れるような手段を手に入れたわけだ。

 元気で健康な肉体を持つ子供の脳に、自分の意識を上書きすることが理論的に可能になっているっていうのは本当のことなんだ。陰謀論者やアンチプラグドの戯言、作り事、妄想だと言われていたことが、本当のことだったってことを知ってしまった。
 この学校の九割が養子縁組された児童や孤児だっていうことを君は知っていると思う。。

 僕たちのクラスの場合、君と、内藤くん、長岡さん、それからあと3人だけが、実際の血縁関係にある親に養われている。

 あとの生徒は皆養子だったり、孤児枠の生徒なんだ。

 彼らにとって孤児である僕らは体のいい白ロムなのさ。

 自分たちの人生、記憶、経験を上書きするための器としてこの学校に入れられたんだ。」

 どうして学校というシステムが必要だったのか、その仕組が必要だったのか、全体像はまだ全然わからない。どうして学校という仕組みが必要だったのか、適正を見るためだったのか、いろいろテストをやりやすいからなのか、他にも目的があって、それにちょうどよかったってことなのだろうけれど。

 この夏休みの間にフロイドといっしょに、この学校について調べたよ。

 どんな団体やや組織がいるのか、誰が主犯なのか、誰の計画なのか、今わかっているのは、院長のそれからそれぞれの学年主任の教師小学校の1から6年、中学校の3年まで、高等部の三学年、それぞれの学年主任は、どうもこの事実については知っているようだってことくらいだね。

わかっているのはその13人だけ。他にも何人かいるだろうとは思ってる。」

「岡崎先生はどうなの?あとジェンキンス先生とか。」

「岡崎先生は知らないよ。彼女は末端の人間だし、事実や目的については何も知らされていない。ただの雇われ教師にしかすぎないからね。ジェンキンス先生についてはわからない。今確認しているところだ。」

 シャオ・ツーは一瞬険しい表情を見せる。

「まさか、そんなこと信じられないよ。」と直行は首を横に振る。

「それに、どうしてそれを僕に教える必要があるの?そういうことなら僕じゃなくて、孤児の子どもたち、養子になっている子どもたちのほうが君の仲間としてはふさわしいのじゃないの?僕たちがどうしてそんなことに巻き込まれなくちゃいけないんだよ?」直行の言葉尻が強くなる。

「それは違う、君たちが巻き込まれたんじゃない。君たちが巻き込んでいるんだよ。」シャオ・ツーの目に力強い力が宿る。直行は圧倒され何も言い返せなくなる。

「この学校のバンディズム、いわゆる血脈主義っていうのは時代遅れなものだっていうのは、本当は彼らも皆気がついている。

 一族の血を絶やさないことで、自分の情報を次世代に伝えていく、それは確かに最善の手段だったのかもしれない。けれども今は違う、自らの積み重ねた情報や経験、記憶、そういったものを直接伝えることができるようになった。自分の子供にだけじゃない、他人や、より優れた遺伝子を持つ者に、自分が積み重ねてきた経験・知識のすべてを移転することだって可能になってる。そして彼らは信じている、意識を、自分自身を移し替えることすら可能だとね。養子としてこの学校に通っているものは、みな高所得でいわゆる富裕層と呼ばる資産を数兆円の単位で所有しているものばかりだ。そういう人間の一部だけど、永遠の命を欲しがるものはいる。自分の養子に適正がない場合もあるだろう、そういう場合は孤児枠の子供を使うのさ。」

 シャオ・ツーは話しているうちに怒りの感情がこぼれだすのを感じていた。直行は圧倒される。言い詰めるようにシャオ・ツーは話し続ける。

「一方君たちは平均的な収入の家庭に育っている。

自分が平凡な一般の家庭、平均的な平民のクラスの人間だっていうことわかってる?君の父親は裕福ではあるが、医者だし、坂本くんのところは、それなりの商社に努めた父と母ではあるものの富裕層と呼ばれる層に属するものではないよね。

 君たちの持つ考え方、民族主義や血縁主義は彼らにとって都合のいい隠れ蓑なんだよ。『血は水よりも濃い』という昔ながらの価値観、人類の種全体のためでなく、個人的な効率を求めた結果としての主義、結局大事なものは自分自身という個人主義の形を変えたものがバンディズムってことさ。バンディズムのその本質は超個人主義なんだ。民族主義だって同じだよ。彼らの言う民族っていうのは、自分ひとりが頂点に立つ個人的な価値観の土台にしか過ぎない。」シャオ・ツーはそう言い放った。

 しばらくの間、直行は言葉を失った。なにも考えることができなくなっていた。

 二人の間に沈黙が続く。

「でもまぁ、そういうことはどうでもいいんだ。君に直接関係があるわけじゃないしね。」と吹っ切れたようにシャオ・ツーは直行に笑いかけて言った。

「仮に君がなんらかの事象が起きて性別だけが女性に変化してしまったとしたら君は君ではなくなったりするのだろうか?なんらかの事象っていうのは、わかりにくいか、
 例えば、今から君が性転換手術を受けたとしよう。
 男性器を切除し女性器の形、骨の形を整形して、胸にも膨らみがある身体になったとしよう。君は性別が男性から女性になったということだ。では、そうなってしまった君は、やはり君のままなのだろうか?」

 急に話の内容が変わって直行は困惑した。そして答えた。

「性別が変わったからと言って、僕が僕でなくなるとは思わないよ。だって僕の中の思考や感情、記憶、価値観なんかは変わらないからね。外見がどう変わろうと、それらが僕を僕として定義していると思う。もし、その全てが変わってしまうなら、それこそ僕は僕ではなくなるのかもしれないけど…」

 いや、これはさっきの話の続きなのかもしれない。と直行は思った。大事なのは、知識や経験を「他人に奪われないようにするために」どうすればいいのかということなのかもしれない。肉体が変わったとして、自分は自分のままで要られ続けるのだろうか。

 自分と他人の違いってなんなのだろうか。自分とはなんなのだろうか、他人とは何なのだろうか、僕にとっての僕と、他人にとっての僕に違いがあるのだろうか、そんなことが頭のなかでぐるぐる回ってる。
 親は他人なのか、将来僕が持つであろう君の子供は他人なのかってことだ。どうなんだろう、僕は他人と自分自身をどう区別しているんだろうか?自分と他人の違いはなんだ?身内と他人の違いは?

「自分自身というのはなんなのか考えてみて。
 そして君の生き方を君自身が本当に選んでいると言えるのかどうかを。」とシャオ・ツーは直行に聞く。

 彼は言葉を探した。自分はなんなんだろう。これまで人間は他人の思考や感情を本当の意味で理解できない存在、解釈することはできるけれども、相手そのものを理解しているわけじゃない。ただ他人を理解するのと同じように、自分を理解しているのも事実だ。自分を理解していく過程で自分自身を形成していく存在でもある。

「どうして僕なんだい?」坂本直行はもう一度聞いた。シャオ・ツーは優しげな笑みを浮かべて答える。

「仲間を探しているんだ、それからある才能をもっているかどうかも大切だ。君には特別な才能があるんだよ。それはちょっとSIDと君の脳をいじる必要がある。いじると言っても、外科的な術式を用いて君の脳になんかするってことじゃないよ。
SID-OSを通じて情報を上書きするというか、作り直すことになるんだ。」

「え、どうするってこと?」

「さっき、したのと同じだよ。僕と君、そしてフロイドとガンジャがキスするだけでいい。SIDを起動してガンジャを交感できるようにしてもらえるとありがたいな」

 シャオ・ツーはそう言いながら直行に軽くキスをした。それがスイッチになったのか、意識したからなのか、SIDの設定がデフォルトモードになり、ガンジャの姿があらわれる。

 まず、ガンジャの方からフロイドに近づいていってガンジャは力強く彼を引き寄せる。

「やれやれ、なんでオランウータンとキスしなきゃいけねーんだよ」とフロイドは愚痴る。それをみてシャオ・ツーはおかしそうに言う。

「文句言わないの」

それはフロイドに掛けた言葉だったのだけれど、直行にも同じように言い聞かせる効果があった。
 直行とシャオ・ツーは唇を重ねキスをした。さきよりもずっと激しく。

 直行の中の深い所、それは心の深淵部分なのか、今の直行にはよくわからない。心のブラックボックスが作り変えられていくような感覚があった。

「自分自身とはなんなのか」

「人間の権利を尊重するようにはなっているけれども何をもって人間と言えるのだろう」

ネルギーは肉体を変えることができる、そう信じることが大事なんだ。」

いろいろの質問や疑問に答えるための思考の仕組みプロセスが作り変えられていく。

雑念も、現れては消えていく

「この学校の校訓はなんだっけ?」桜花学院の校訓は「"過去を尊重し、未来を見据える": "Praeteritum veneror, Futurum prospicio"」「"真理を探求し、光を求める": "Veritatem quaero, Lucem peto"」

「けっこう大したものだよ。その本性はくだらない個人の命のレールを繋いでいくだけのことなのにな。」

「この学校の運営には、どこからか資金が流れてきてる。」

「君たちの{{僕たちの}}命にはは価値なんて本当は無いのだ、価値の無い君たちの存在が、僕たちの価値をよりいっそう高いものに変えてくれるということかもしれないね。」

これはシャオ・ツーの意識だろうか?それとも自分の意識だろうか、自分とシャオ・ツーの境目がすっかりなくなってしまったようだ。

「すばらしいね、すばらし過ぎるっていってもいい。その校訓を胸に入れたままどんどん進んでいってほしいものだ。」

 これは僕が自分がで考えていることなのか、それとも、シャオ・ツーが感じていることなのか区別がつかない。シャオ・ツーとキスをしているのは僕なのかどうかさえ分からなくなっていく。
 シャオ・ツーと自分が一つになっていく、互いの意識が溶け合って一つになっていく。

「どうして僕にそんな能力があるってわかるの?」と、その意識の中で直行は問を思い浮かべる。

「ぶっちゃければ、AIがその答えを言ってる。」
そう答える声は、シャオ・ツーの声なのか、それとも自分自身なのか、区別がつかない。区別がつかないというか、どちらでもないような気がする。どちらでもいいような気がする。

 フロイドが笑っている。

「今から君に大切なことを伝える。言語化しているけれど、SIDによってそれ以上の理解が君にもたらされると思うけどね。まずは **霊子と重力子の相互作用についてだ。**霊子と重力子の間に相互作用があるっていうこと、それが重力と意識の制御に用いられるってこと。霊子は情報をエンコードし、重力子はその情報を具現化する役割を果たすっていうこと。
 それから、このある君のSIDの役割はもっとヤバいものになる。ユーザーの脳波パターンをキャプチャし、それを霊子の振動としてエンコードする、SIDの機能はそれだけのものじゃない。霊子の振動は次に重力子に伝達され、具体的な物理的影響を引き起こす。」

「霊子、霊子ってなんだっけ」

「霊子と重力子の交互作用は、僕らが認識する三次元以上の次元において起きてる。霊子と重力子は高次元空間を通じて情報をやりとりし、その結果が僕らの世界に影響を及ぼすようになる。」
「僕にできるんだろうか?」

「君は君の意識を霊子の振動としてエンコードすることで重力子を操作することができるようになる。物質の動きを制御したり、新たな物質を生成したり、時間や空間を操作したりすることができるようになる」

「霊子…、振動…、重力子を…操作…。」

「大丈夫、君ならできる。意識を集中して」

「大丈夫、できる、意識を集中しよう」

坂本直行の周辺がぼんやりとした柔らかい光に包まれる。細胞が生まれ変わる、組成が入れ替わっていく、指や首筋が細く、華奢な作りに変わり、肉体が変化していく。

「あぁ、これはなんだろう、本当の僕になっていってるってことなんだろうか」

シャオ・ツーの唇がゆっくりと離れる。

そこにいる直行はいままでの彼ではなかった。

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