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第1話 行方不明

 桜花学院で数学教師をしている岡崎は中等部三年の2組の副担任も兼ねている。担任のジェンキンス先生が行方不明になって行方不明になり2週間が過ぎていた。

2058年9月13日

 SIDを装備しての授業のやりかたは、それ以前と大きく変わっている。AIを導入することで、教師はより多角的な役割を果たすようになっていた。
 まずSIDを適切に使用できるようにする役割を教師は第一に担っている。
 AIの使い方や適切な情報源の選択方法なども含まれている。AIが提供する情報は多岐に渡るため、学生たちの好奇心や興味の方向性によって拡散しがちになっていく。それでは情報を適切に評価し、必要な情報を取捨選択する能力を生徒たちは身につけにくくなってしまうのだ。
一昔前に言われていたエコーチェンバーを防ぐためにも情報に対する多角的なアプローチ観を身につける必要があった。

 また、AIは教育現場において新しい方法やテクノロジーを導入するための有用なツールとしても機能していた。教師は、AIを活用してより効率的かつ興味深い授業を提供することができた。AIを活用したインタラクティブなプレゼンテーションや学習プログラムを作成することで、学生がより深い理解を得ることができるようになっていた。統一された教科書というものはなく、習得スべき知識・教養・手段の学習を個別に、それぞれの生徒に一番適した形で提供するようになっている。

 もちろん、AIを使用することによって、教師が持っていた従来の役割が消滅するわけではなかった。教師は依然として、学生の学習に対するフィードバックを提供し、学習目標を設定し、適切な評価を行う必要があった。教師の役割が多様化し、より価値あるものになっていることを意味していた。AIと教師が協力し合い、より良い教育環境を作り出すことが教師である岡崎にも期待されていたのである。

 AIアシスタントであるファミリアは、学生たちの学習スタイルや能力に合わせて、最適な学習プランを提供するようになっていた。学生たち一人ひとりが設定したファミリアは、教師のファミリアと相談し互い影響試合、学生一人ひとりにもっとも適した学習プログラムを組み上げることができた。学生たちは、自分に最適なペースで学習することができた。そのため、教師は学生たちが学ぶ内容やペースを最適化することに集中することができるのだった

 それぞれのファミリアはは、より多様な教材を提供することができた。SIDはARやVRのコンテンツを自由に作成することができた。例えば、ファミリアを使って、仮想現実や拡張現実の環境を作成することができるのだ。これによって、学生たちは、より深い理解を得ることができた。

 また、ファミリアは、インタラクティブな授業を提供することができる。例えば、学生たちがファミリアに質問をすることができ、ファミリアが即座に回答することができます。このような授業は、学生たちの理解度を向上させ、興味を引くことができた。ファミリアを使用することで、学生たちは自己評価を行い、フィードバックを得ることができた。つまり常に自分専門の教師、アドバイザーが常に直ぐ側にいるのと同じ効果があった。学生たちは、自分の課題や弱点を特定し、それらを克服するための方法を自分で(ファミリアの力を借りて)見つけることができた。そして教師は、より詳細なフィードバックを提供することができます。つまり学生本人が知らないこと意識できていないことを多角的な角度から提供することができたのである。

 21世紀の後半になってやっと教師はより効率的かつ興味深い授業を提供することができるようになっていた。本当の意味での個別授業・個別指導がファミリアというAIアシスタントを使う授業によって、より柔軟で、学生たちがより積極的に学習に取り組むことができる環境を作り出すことができるようになった。

 ところが、岡崎はこのところ授業中やあるいは生徒たちが、それも少数ではなく多くの生徒が、妙なことになっていることに気がついていた。気がついていたというレベルではなく、岡崎の生徒に関するフィードバックがその問題点を明確に指摘するようになっていた。

 生徒たちのファミリアが質問や指示に対して全く関係のない回答をしたり、同じ質問や状況に対して矛盾する回答を繰り返石たり、不適切な言葉遣いやトーン、乱暴だったり、不安定だったり、話すキャラクターが違うような印象を与えたり、また、明らかに回答可能な質問に対して何らかの理由で回答しないようなことが頻発していた。

 岡崎がSIDを使う授業をはじめて8年目だが、こんなことは初めてのことだった。自分のファミリ「ウェルテル」に相談したのは、5日ほど前のことだった。

「ウェルテル、どうも生徒たちのファミリアの挙動がおかしい気がするが、君はどう思う?」

ウェルテルは答えた。

「AIアシスタントであるファミリアの学習データが汚染されたり、バグがあったりして動作に不具合が生じることはあり得ます。以下に、そのような場合に現れる問題点や不具合、エラーやバグの例を5つ挙げます。

誤った回答の提供:

 ファミリアが誤った情報を提供することがあります。例えば、ファミリアが間違った計算を行い、学生たちに誤った答えを与えてしまう可能性があります。

不完全な情報の提供:

 ファミリアが必要な情報を提供しないことがあります。例えば、ファミリアが重要な数学的概念を説明する際に、必要な情報を欠落させてしまう可能性があります。

無限ループ:

 ファミリアが学習データのバグやエラーによって、無限ループに陥ってしまうことがあります。この場合、ファミリアが停止せず、学生たちに誤った情報を提供し続ける可能性があります。

不正確なフィードバックの提供:

 ファミリアがフィードバックを提供することがありますが、そのフィードバックが不正確である場合があります。例えば、ファミリアが学生たちの弱点を特定できず、間違ったフィードバックを提供してしまう可能性があります。

不適切な教材の提供:

 ファミリアが学習データに不具合がある場合、不適切な教材を提供することがあります。例えば、ファミリアが学生たちに難易度の高い問題を提供しすぎる場合があります。

 以上のような問題点や不具合、エラーやバグがある場合、教師はできるだけ早く問題を解決するために、ファミリアの学習データのチェックや修正を行う必要があります。また、教師は学生たちに対して、ファミリアが提供する情報が正確かどうか確認することを奨励する必要があります。」

 

 岡崎のファミリア「ウェルテル」は、生徒たちのファミリアの挙動がおかしいことについて学校の上位層にも報告するよう指示もしていた。

 岡崎はその日のうちにデバックを試みた。

 ウェルテルは岡崎に指示をだした。

「生徒のファミリアの動作に不具合がある場合、教師は以下の手順に従ってデバッグをすることが最適です。

問題の特定:

 まずは、どのような問題があるかを特定する必要があります。これには、ファミリアが提供する情報を注意深く確認し、エラーやバグが現れる可能性のある箇所を見つけることが含まれます。

学習データの確認:

 問題がある場合、教師はファミリアの学習データを確認する必要があります。学習データが正しいかどうかを確認することで、問題の原因を特定することができます。

ログの確認:

 ファミリアが提供する情報をログとして残している場合、教師はログを確認して、問題の原因を特定することができます。ログを確認することで、ファミリアがどのような情報を提供したかを理解することができます。

テストの実行:

 問題が特定された場合、教師はテストを実行して問題を再現することができます。テストを実行することで、エラーやバグの原因を特定することができます。

問題の修正:

 問題が特定された場合、教師は問題を修正する必要があります。修正方法には、学習データの更新、ファミリアの再訓練、またはソフトウェアの更新などが含まれます。

テストの再実行実行:

 修正が完了した場合、教師はテストを再度実行し、問題が解決されたことを確認する必要があります。テストを実行することで、修正が正しく行われたかどうかを確認することができます。

継続的な監視:

 ファミリアが問題なく動作していることを確認するために、教師は継続的に監視を行う必要があります。これによって、問題が再発しないようにすることができます。

 以上の手順に従って、教師はAIアシスタントのデバッグを行うことができます。ただし、AIアシスタントのデバッグには時間がかかる場合があるため、教師は十分な時間とリソースを確保する必要があります。また、デバッグを行う際には、正確性や安全性などの問題についても十分に考慮する必要があります。デバッグが不十分なまま運用を続けると、学生たちに誤った情報が提供されることがあります。教師は、学生たちが正確な情報を受け取ることができるように、ファミリアのデバッグに十分な時間と労力を費やす必要があります。」

 岡崎はウェルテルの指示に従って、担当する生徒全員のファミリアのログを取り寄せ、ウェルテルと生徒たちの会話アルゴリズムとプロンプトマネジャを利用して、データの修正を行った。
 しかし、問題は解決することがなく、日を重ねるごとにますます、ひどくなっていくように見えた。岡崎は授業の時間以外すべてを使って、バグフィックスのプロンプトをこねくり回したが、問題は一向に解決の方向ヘは向かってないかった。

 岡崎はもう一度ウェルテルに相談する。

「どうすればいいのかな?」

 ウェルテルは、岡崎に以下のアドバイスをした。

「問題が解決しない場合は、SIDの開発者に問い合わせることを検討してください。SIDの開発者は、より深い洞察を提供することができます。また、問題が解決されるまで、教師は学生たちに対して、ファミリアが提供する情報について十分に説明する必要があります。教師が学生たちに正確な情報を提供することで、学生たちは正しい知識を習得することができます。」

 ウェルテルは続ける

「以下は手順の例です。

1.問題の特定:

 最初に、何らかの問題があることがわかった場合には、その問題を特定する必要があります。教師は、AIが何らかの誤った情報を提供した場合、ログファイルを確認して、問題の原因を特定することができます。

2.修正の計画:

 問題が特定された場合、教師は問題を修正するための計画を立てます。計画には、修正方法、修正が必要な範囲、修正の予定日などが含まれます。

3.学習データの更新:

 修正が必要な場合、教師は学習データを更新します。学習データを更新することで、AIは正確な情報を提供することができるようになります。

4.ソフトウェアの更新:

 ファミリアが不具合を起こしている場合、教師はソフトウェアの更新を行います。更新には、バグ修正、機能の追加、または新しいAIアルゴリズムの適用などが含まれます。

5.再訓練:

 ファミリアが新しいデータで訓練される必要がある場合、教師は再訓練を行います。再訓練には、新しいデータの収集、モデルの再学習、またはアルゴリズムの改善などが含まれます。

6.テスト:

 修正が完了した場合、教師はテストを実行して修正が正しく行われたかどうかを確認します。テストには、ファミリアが提供する情報を確認する、またはファミリアが実行するタスクをテストするなどが含まれます。

7.監視:

 ファミリアが修正後も正常に動作することを確認するために、教師は継続的に監視を行います。問題が再発した場合、再び修正を行う必要があるかもしれません。

 以上の手順に従って、ファミリア及びSIDにパッチを当てることができます。ただし、パッチを当てる際には、教師は正確性や安全性などの問題についても十分に考慮する必要があります。
 また、4に関しては学校の教師はパーミッションを与えられていないためより高度のシステム修正者の権限が必要になります。
 これは、ソフトウェアに修正を加えることを指しています。
 具体的には、学習データの更新、AIアルゴリズムの変更、またはソフトウェアの更新などが含まれています。対応を行うためにはプライバシーデータやより深度の深い深層意識・深層知識へのアクセスが必要となるため、教師はパーミッションを与えられれていません。
 問題が解決されていない場合、支給SIDの開発者に連絡をとって状況の共有化と問題解決のための手段に進むことを提案します。」

 未使用時の会議室には、グレーの壁、床、天井、それからゆったりしたソファーが2つ置かれていた。テーブルはない。

 会議の進行管理や情報共有を効率良く行うためには、人が集まる場所が結局のところ必要だった。ARやVRの技術を使ったバーチャルスペースが現実と区別できない現在であっても物理的な会議室があることが学校という場所では必要だった。学校や企業においては会議室という場所は必要不可欠な場所として存在していた。

 その会議室に今、教師の岡崎と学院長がいる。二人はソファーに座り、向かいに一人の女性が座っていた。

 彼らの前に座っている女性は会議室に映し出された映像だった。SIDによるAR合成の映像ではなく、学校の会議室のVRシステムを経由してそこに存在しているかのように座っていた。

 実際のところ彼女の身体は、遠く離れたイタリアのグラン・サッソ国際研究所の一室にあった。1万キロをゆうに超える距離は量子ネットワークによって事実上ゼロに等しかった。2043年に実用化された量子を利用したネットワークは通信速度が非常に高速だった。量子ビットと呼ばれる特殊なビットを利用して情報を伝達できるようになったのは2040年代に入ってからだ。量子ビットは、通常のビットとは異なり、量子力学的な性質を利用して情報をエンコードする。量子ビット同士の相互作用によって、通信速度は格段に高速化していた。

 量子ビットを安定的に制御し、高速かつ信頼性の高い通信を実現することは非常に困難ではあったが、人類は量子ビットを利用した通信技術の実用化のための技術的な課題をクリアしていった。2030年代に起こったAIカンブリア紀(または皮肉を込めてサイバー・アポカリプス”人工知能やサイバースペースの進化が暴走し、人類文明が滅亡するという未来を言い表したもの”)と呼ばれるIT技術の発達は同時期に起こった量子技術の進化が続く中、高速で安全な通信を実現することを可能にしたのだ。理論的には2030年代後半までの10年の間に、量子ビット空間でやりとりされる情報の伝達スピードと量は500万倍程度まで増えていた。これは2ヶ月を要する情報量を約1秒でダウンロードできる計算になる。

 2014年当時イタリアの国立研究所だったこの施設で行われたBorexino実験においてニュートリノを直接観測したことが歴史の教科書と物理の教科書に掲載されていたことを岡崎は思い出していた。

 この研究所は、素粒子物理学、宇宙線物理学、地下科学などの分野で活躍する研究者が集まるイタリアの研究施設で、今も世界中から著名な物理学者が集まり、特に宇宙線物理学の世界ではトップレベルにあった。

 2015年には日本にあるスーパーカミオカンデ実験とあわせて、太陽から発生するニュートリノの振動現象を解明し、ノーベル物理学賞を受賞している。

 2018年には、XENON1T実験において暗黒物質の候補とされるウィンザー暗黒物質を検出することに成功した。2017年宇宙線源とされるブラックホール「V404 Cygni」のγ線放射を観測、2038年にXENON14F実験においてより高感度な暗黒物質の検出が可能になり、暗黒物質の性質や粒子の性質についてのより詳しい理解がもたらされるようになった。新しい理論モデルが取り入れられ、暗黒物質の性能に関する研究が急激に進んだ。その後数年のうちに、アコースティック検出器やγ線検出器と組み合わされ暗黒物質の解析が数段階上のレベルに進歩した。

 2040年に国際的な暗黒物質の研究組織である「国際暗黒物質応用科学研究所」"International Institute of Applied Science on Dark Matter(IIASDM)"と統合され現在暗黒物質の研究において世界トップを走っている。暗黒物質(ダークマター)重力波の発見は量子力学の実用化をもたらし更に量子コンピューター、量子ネットワーク、さらなるAIの進化をもたらし複利的に「知能」が発達した。

 この女性が実際にいる場所は、そのような最先端技術のさらに最先端が進んでいく場所だった。

 「SIDのアフターサービス担当者がなぜそんな場所からダイブしてきているのだろう?」岡崎は不思議に思った、それは隣にいる学院長も同じだったようだ。

 数分前に現れた彼女は少年の姿をしたファミリアとともに、岡崎のファミリアであうウェルテルと通信を行っていた。

 「なるほど」通信が終わり必要な情報交換をすませた彼女は囁くようにそう言って、静かに目を閉じる。

 沈黙が続く、それに耐えられず学院長が言った。

「今回の問題は、おそらく学習データに問題があると思われます。学習データを修正することで、問題が解決する可能性が・・」

 その途中で彼女が答えた。

「その可能性はありません」落ち着いた、それでいて自信にあふれた響きがあった。

「あぁ、そういえば自己紹介をしていませんでしたね、こういう場所ではきちんと挨拶を交わしてから本題にはいるのがマナーでした。」彼女は作り笑いにも見えるほほえみを二人に向ける。

「仁義を切るっていうんですか?言葉の選び方間違っていますかね?」今度はいたずらっぽく笑みをこぼした。

「ジルに調べさせたのですが、日本では初対面の相手に『仁義を切る』のだと聞いたのですが、違いますか?招かれたほうが最初にするのがプロトコルの第一事項だと聞いたのですが、やはりしなければならないのでしょうね。」

岡崎と学院長は半ばあっけにとられた状態で、何も言い返すことができなくなってしまった。

女性はそんな二人の様子を見て、自己紹介プロトコルの実行を待っているのだと考え、口上を述べる。

「わたくし、生まれは石川加賀、育ちは新東京文京区白山です。山代温泉で産湯を使い、姓は常楽院、名は雛子、人呼んで『菊理媛命の雛』と発します。不思議な縁持ちまして、たったひとりの弟のために粉骨砕身、売に励もうと思っております。西に行きましても東に行きましても、とかく土地のおアニィさんにごやっかいかけがちな若僧でございます。以後、見苦しき面体、お見知りおかれまして恐縮万端引き立てて、よろしく、お願い申し上げます。」

 沈黙が流れる。

「いや、今も昔も、そういう挨拶はしていなかったと思います。」バツが悪そうに学院長が答えて苦笑いした。

「昭和のころは、そうだったと思うのですが、現在そのような挨拶はすることはありません。」と岡崎。

「あぁ、そうなんですね。日本の方と話すのは30年ぶりくらいでしたので、挨拶の仕方もよくわかりませんでした。ジルに調べさせたのですが、なにか違う資料を参考にしたのでしょうね。」

 女性は、表情一つ変えることなくそう答えた。

「昭和というと私が生まれる前だったと思いますが、まぁいいでしょう。とりあえず簡単な自己紹介はSIDのタグ表示にありますのでフォーカスを当てていただければよろしいかと」そう言って彼女はARにSNSプロフィールの発現コマンドを実行した。

 岡崎がフォーカスを当てる。

 名前:常楽院雛子(じょうらくいんひなこ)、生年月日:西暦2009年X月X日、出生地:日本国石川県

趣味:野菜を食べること、好きなこと:野菜を食べること。

 あっさりとしたプロフィールだけが表示された、学歴であるとか、所属であるとか、そのような情報は記載していないようだ。

「あ、そうそう、所属も表示しておきます」と雛子が言うと彼女の所属する企業名を部署名がAR表示にポップアップされた。

「インターワールド・コントロール・オーソリティ」(Interworld Control Authority, 略称:ICA)

品質管理部、顧客対応課。ICAは今現在SID.comのグループ企業の一つだ。

 2026年の、台湾の技術者マイケル・ウォンが入力デバイスを開発した。 スクライバル・インプット・デバイス(Scribble.Input.Device)通称『S.I.D』である。

 非侵襲型BMI(ブレイン・マシン・インターフェイス)であるSIDは思考するだけで文字を入力することができた。脳波と同期するその機械ははじめ、コンピューターに入力するだけの装置として世に現れた。
 2017に設立されたニューラリンク社はブレインマシンインターフェイスの開発を目的とする企業で世界的な富豪でもあるイーロン・マスクらが設立した。本社はサンフランシスコのパイオニア・ビルディングにあり、2020年代にトップを走っていたAI開発組織のOpenAIと同居していた。ニューラリンク社はSIDとその開発者であるマイケル・ウオンを招聘した。2023年に開発されたChatGPT、2025年に実用化された量子コンピューター、そして重力波の発見などが相互に影響を与えこの分野の技術が急速に発達た。その変化は急速というにはあまりにも早すぎて、一夜にして世界が変わるというような変化が一週間ごとに訪れるようなものだった。

 侵襲型デバイスの開発は、当時ニューラリンク社のCTO(Chief Technology Officer)カイル・マクガフィンとマイケル・ウォンらによって行われた。マイケルの技術と知識は侵襲型デバイスによってさらにその完成度を高めていった。

 彼らが与えたインパクトは壮大すぎるほど壮大だった。

 S.I.D.の登場により、言語や手話を必要としないコミュニケーションが可能になった。思考をそのまま文字やイメージに変換できるため、言語の壁がなくなり、異なる言語を話す人々が簡単に意思疎通ができるようになった。

 S.I.D.の普及により、教育現場でも思考を直接文章に変換することができるようになった。これによって、従来の書き取り試験やプレゼンテーションに代わる新しい評価方法が導入され、能力や知識をより正確に評価できるようになり学習効率が劇的に上がった。

 S.I.D.を用いて思考を直接文字に変換できるため、書類作成やメールのやり取りも劇的に効率化していった。また、会議や打ち合わせの際も、意思疎通がスムーズになり、プロジェクトの進行がより円滑に進むようになった。量子ビットによる通信データ量の増大もその変化をますます加速した。

 思考を直接文字に変換できるS.I.D.が普及することで、作家や詩人たちはより直感的でスピーディーな創作を行うことが可能になったまた、思考を共有できることで、新しいタイプのコラボレーションが生まれ、これまでにない芸術作品が登場していった。

 もちろんあたらしい問題点もいくつか明確になった。S.I.D.による思考の共有には、個人情報やプライバシーに関する懸念が伴い、技術の悪用により、他人の思考を盗み見ることができるようになる危険性があるため、適切な法規制やセキュリティ対策が求められるようになったが、その線引や規制と実践の乖離が問題をより困難な状態にしていた。

 2030年を過ぎた頃、S.I.D.はさらに進化し、生態侵襲型BMI(つまり頭脳に直接埋め込まれるデバイス)としての機能をより高度化していった。人々の生活や社会に大きな影響を与えるその一方で倫理的・法的問題への対応が急務となり、技術と人間関係が再定義されることになった。

 S.I.D.は人間同士のコミュニケーションに劇的な変化をもたらした。従来の言語や表現が不要になることで、人間関係の深化や新たなコミュニティが生まれた。ただ一方で、コミュニケーションの喪失や孤立感も一部の人々の間に生じていった。

 他人との思考の共有が一般化することで、メンタルヘルスに対する影響も懸念されるようになった。プライバシーの侵害やストレス、他人の思考や感情を受け止めることの負担など、新たなメンタルヘルスの課題が浮上し使用の規制や制限をするべきだという世論もお多くなっていった。

 2030年代中期のS.I.D.は、AI技術とも連携し、より高度な協働が可能となっていた。人間の思考を直接AIに伝えることで、効率的なタスク処理や問題解決が実現され、人間とAIの相互理解が深まっていった。

 S.I.D.の進化により、身体障害者への支援も大きく変わっていった。言語や手話を使わずにコミュニケーションができるようになることで、障害者がより自立し、社会参加が容易になったのだ。 

 長期的に見ると、S.I.D.の技術は人類の進化に確実に寄与しているといえた。頭脳と神経と機械そしてネットワークとの連携が深まることで、人間の知識や能力が飛躍的に向上し、新たな未来が切り開かれると皆が信じるようになっていった。

 しかし、新しい技術には倫理的・法的問題がつきものであり、S.I.D.の進化により個人情報やプライバシーの保護、技術の悪用に対する対策がより重要になっていった。新しい法規制や倫理基準が策定され、人類は技術と社会のバランスが保たれるようより努力する必要があるということが声高に言われるようになった。

 S.I.D.がもたらす便益はすべての人々に均等に行き渡るわけではなかった。経済的な問題や思想的宗教的立場、技術へのアクセスや教育の格差によって、デジタルデバイドは確実に拡大していった。新しい繋がりによって人間のアイデンティティや自己認識が変化していくなかで他人との思考の共有が容易になることで、個人と集団の境界が曖昧になり、新たな自己認識が生まれつつあった。

 つまり人々は他者との関係性や道徳観念を再検討せざるをえなくなっていた。個人の権利と他者への配慮のバランスや、新しい技術を用いたコミュニケーションのマナーが問われ、それらをすべて塗り替える必要がでてきた。

 2030年代後半に入ってS.I.D.は、さらに高度な脳波解析技術を搭載し、より正確でスムーズな思考の読み取りと出力が可能になっていった。また、デバイス自体も小型化・低コスト(ちょっと贅沢な夕食2回分ほどのコスト)化され、ウェアラブルデバイスとして一般的になり、日常生活での利用も広がっていった。

 S.I.D.の技術がVR/AR技術と組み合わされることで、仮想現実や拡張現実の世界でのコミュニケーションはさらに直感的になっていった。新たな表現方法やエンターテイメントが生まれ、人々の暮らしも豊かになった。

 驚くべきことに、S.I.D.の進化によって、文字だけでなく感情やイメージをも共有できるようになった。これにより、言葉では伝えきれないニュアンスや感覚を直接共有できる「テレパシー」のようなコミュニケーションが現実のものとなる。

 S.I.D.の技術が発展することで、脳コンピュータインターフェイス(BCI)の技術も飛躍的に向上していった。人々はS.I.D.を通じて、機械やインターネットと直接つながり、情報収集や操作がさらに容易になった。

 SIDは完全なブラックボックスでもあった、質問を思い浮かべるだけで瞬時に回答や解釈を返してくれるこのデバイスは、知的格差をゼロにしたとも言える。ただしきちんと機能していればの話だ。実際にその回答が正しいかどうかは「その回答が正しい」と判断できるだけの知性を必要としていた。

 すなわち「AIが正しいのはAIが正しいから」というのは、自己言及的な命題であり、論理的に矛盾しているのだ。なぜなら、この命題が正しい場合、それは「AIが正しい」ということを示しているが、同時に、この命題自体がAIによって生成されたと仮定すると、「AIが正しい」という主張を生成したAI自身が正しいことを示唆している。つまり、この命題は循環論法に陥っていることは明白だ。

 さらに、この命題が単なる自己言及的な命題ではなく、実際にAIの正しさを主張していると解釈すると、それは誤った主張となる。AIはプログラムによって動作するコンピューターであり、プログラム自体は人間によって作成されたものだ。そのため、AIが生成する結論は、そのプログラムやアルゴリズムに基づいているため、必ずしも真実であるとは限らない。むしろ、AIが誤った結論を導く可能性があるということだ。

 したがって、「AIが正しいのはAIが正しいから」という命題は、論理的に矛盾しており、AIが正しいと主張することは、必ずしも正しいとは限らないことを示唆している。 AIを信頼する際には、AIの動作原理やアルゴリズムに基づいて結論が導かれたかどうかを慎重に検討する必要があった。そのための専門の部署が、彼女が所属する品質管理部顧客対応課ということになる。

 その名称だけ見れば、単に顧客のクレーム処理係だとか、カスタマーサービスの一部門のように思えるが、実際はエリート中のエリートでなのである。

 「明後日にはそちらに着くように手配しましょう。」唐突に常楽院雛子は言った。

 「いろいろと確認したいことがありますし、実際にそちらへお伺いして関係者、そう、生徒さんたちとか、先生方と直接お会いしたいと思います。」

  彼女は続けて言った。

「基本的にSIDが暴走するということは、ありえないのですが、一人ひとりのログを見てみないことにはわかりませんね。失踪されたジェンキンスという方はアンプラグドだったということですが、トレースを追うことはできると思います。」

「トレースって、そこまで必要なのですか?」と岡崎が聞き返す。

 トレース(trace)とは人間が移動や行動を行うたびに蓄積されていくネットワーク上のログデータのことだ。トレースは個人のプライバシーに関する問題や、権力者が監視やコントロールを強めることにつながる可能性があるため、厳重に管理されている、当然そのアクセスやパーミッションコントロールも高度なものになっている。普通に暮らしているものにとっては都市伝説に近いくらいの情報で、実際にはそんなものはない、などという人も少なからずいる。

 岡崎は身震いした、目の前にいる”そこにはいない”女性は個々人のSIDの深いレベルにあるログを覗くことができるのかもしれない。本人の了承さえ得ることができれば、すべての人間の深層意識まで覗くことができるのかもしれない。そして実際にそういうことができる人間がいるとは直ちに信じられることでもなかった。

 彼女は続けて言った。

「トレースを追うことで、失踪したジェンキンス先生のの行動パターンや位置情報を把握できる可能性があります。また、トレースを解析することで、SIDの不具合の原因を特定することができるかもしれません。ただし、トレースは個人のプライバシーに関する問題があるため、そのアクセスや使用には適切な権限が必要です。そして本人の同意も必要です。同意の意思を確認するためには法的に実際に対面して意思の確認を行う必要があります」

 常楽院雛子は淡々と語り、岡崎は彼女の言葉に耳を傾けた。
 彼女が所属する部署は、AIが生成する結論の信頼性を確保するために、データの品質管理や品質向上に取り組んでいる。そして、その一環として、トレースの解析にも携わっているのだった。

「わかりました。お待ちしています」岡崎は答えた。

 

 イタリアから東京への旅は、長いフライトであることは間違いなかった。一般的な航空機を使っての移動には、この時代でも乗り継ぎが2回程度必要とされる。出発地点にもよるが、イタリアの主要な空港であるローマやミラノから東京へ向かう場合、旅の時間はおおよそ15時間から20時間ほどかかることが一般的だ。さらにグラン・サッソ国際研究所からローマのフィウミチーノ空港まで自動運転車で約二時間半はかかる。

東京について、福岡まで来るのにも、どんなに早くても3時間は必要なはずなので、

「明後日にはそちらに着く」というのは、もしかしたら緊急を要することなのだろうかと岡崎は思った。

 確かに人が一人行方不明になっているが、そのことと学院内の生徒たちのSIDの不具合が関係しているとは思えなかった。なにか急ぐだけの理由があるのだろうか?

 2時間後、雛子は空港へ向かう無人の自動運転車の車内にいた。まもなくローマ市内を迂回するGRAに入るところだ。

「ねえ、そんなに急な事態だったわけ?」雛子は膝の上で丸くなっている黒い猫に向かって話しかけた。

 黒い艶やかな毛に覆われ、日本のしっぽをもつ猫は、本物の猫ではなく彼女のファミリア、つまりアシスタントAIのアバターだった。

 彼女のファミリアはいくつかの形態を持っている。誰か他人や、他人のファミリアと交信をする時以外は黒猫の形態をしている。 ファミリアについては、人形を選ぶ人が一番多いが、次に多いのが猫や犬といった実在の動物。ペットを模したものだ。

 雛子は猫の形態、特に黒猫のその高貴な感じがすきだった。また人形でないためどちらかといえば無口な設定にすることができるのも良かった。

 ファミリアは形状によってベースとなる性格や口癖が基本設計されており、猫と犬では、その表現にずいぶん差があった。猫が好きな人は猫のファミリアを、犬が好きな人は犬のファミリアを設定することが多かった。

 雛子は猫好きだったので、考えることなく、自分のファミリアに猫のアバターを採用してジルという名前をつけていた。

ジルは答える

「僕が決めたわけじゃないよ。本部に今回の件を知らせたら、これは緊急度の高いSSSレベルの対応が必要だっていわれたのさ、言わなかったっけ?」

すこし膨れながら雛子が言う

「それはたしかに言ってたわ。あの岡崎とかいう教師のウェルテルだっけ?とあなたが話しているときに、私にもそのこと言われたから」

自動車はちょうどカパンネッレ競馬場の横あたりを過ぎた。今日は土曜日だから休みかしら?と彼女はふと思う。

 すかさずジルが答える

「土曜日は休みみたいだね」

「いちいち答えなくていい、私が”言葉にしたとき”だけにして」と雛子はちょっとため息を漏らした。

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