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創作の織物の話

本を読んでいると、文章が書きたくなる。

昔ほど本に依存しなくなったが、代わりにnoteで人様の文章を読み耽り、Instagramやfacebookを延々とスクロールし、果てはwikipedia、映画情報、不動産物件等々スマホのディスプレイに次々表れる有益に思える物事をひたすら目でもって舐め回しているのだから、ひょっとしたら本に耽溺していた頃の方が健全だったかもしれない。
その頃は、3日間ぶっ通しでSLGをやり、私より先にプレステがぶっ壊れるなど。

ディスプレイ画面を見続ける快感は、テレビ、ゲームの類が原初的な体験だと思う。

幼少の頃、あれほどテレビばかり見るなゲームばかりするなと叱っていた親が、今は日がな一日テレビばかり見ているので、当時親がどんな気持ちで私にそう躾てきたのか、気持ちがよく理解できる。
母親が倍速で韓流ドラマを見ている時など、言い知れぬ不安に襲われる。

現代美術家の江上計太さんが、川俣正のインスタレーションを見て、これなら作れるんじゃないかと思ったという話をしてくれたことがある。
私も、ムンクやゴーギャンやボナールを見たときに、非常に共感し、憧れながら、これは描けそうだと思った記憶がある。

おっさん文筆家たちの文章は、ことのほか私の感覚に馴染むようで、たぶんそのカッコつけ方が好きなのだと思う。
杉本、色川、車谷、遼ちゃん。

いかにも私は何でも知っている、あるいは私は知らないものは知らないが、これこれこういうことは価値がある、総じて世界に意味はない、が生きていく中でただこれのみが価値のあるものであり、それのみが私の胸を打つ、といったような語り。

本を読んでいると、その語りが自分の声になってくる。
私の声が、本を朗読し始める。

芸術には、人の生き死を超えるものがあると教えてくれる力がある。

そういう魔力に拐かされて、これまで特に飯を食うということについて真面目に考えて来なかったし、それは世界がどうにかしてくれるものだと思ってきた。
空を飛ぶ鳥たちは何も持たず、耕さず、十分に満たされているという言葉があるが、それはそうだろうと思う反面、住む場所を失い泥まみれの格好でその日の食い物を探し回り街を彷徨う自分の姿を同時に想像する。
電車にホームレスが乗って来たときの温度と臭い。

いつその経験が反転するか、つまり私が何年も風呂に入ることが不可能となり、家畜場のような匂いを漂わせ、止むに止まれない事情で電車に乗り込むことになり、同じ車両にいる人たちから存在を無いものとされるような態度を受けることになるか、そう考えることの恐ろしさから目を反らしていたように思う。

魔力は魔力でしかなく、現実ではないので、それを現実のように誤解し、執着してしまった時に魔が現れる。

何が現実なのか。

たったそのひとつの疑問を晴らすために、数えきれない魔と対峙してきたが、答えは外にも内にもない。
なぜなら魔は自分が望んで見ているものであって、世界は見たまんま感じるまんまだからだ。
そこで、身も蓋もない気がするのも魔だし、その魔が作り出すニヒリズムに陥らない方法は、そのまんまをしっかと土台にして、私の価値のある創作をしていくということだろう。

創作というと、とても神懸かりでなければならないと思っていたが、あらゆる表現を繰り返し見るにつけ、吐息ひとつで私は現実を創作していると思える。

心臓のひと打ちが、この体を現在に創作している。
思考のひとひらが、この心を現在に創作している。

当たり前すぎて、それを創作とは思えないかもしれないが、私の行動は意識的、無意識的関わらず全て現実を創作する行為だ。

筆で文章を書くなどということはおおよそないことだけど、筆に随い、話があっちこっちに飛ぶのは快感だ。
話があっちこっちに飛ぶ人と話すのは大好物だ。
随筆とは何と自由を感じれるのだろう。

自然と成り立つ、成り行き任せの創造物というのに、無理のない嘘のない偉大な力を感じるからだ。
人の意思と世界の理が一体となった創造物というものが、私の心を打つ。

山中で長い自然との交わりの中で、表面に彫られた図像、文字、記号の類いが削り取られ、それらを生み出した人間たちの意図とは全く違う佇まい、あるいは余分なものが削ぎ落とされて本質的なものだけが残り、ただそこに在る石塔。
住むもののいなくなった建物、町。
それらをいつか飲み込んでいく植物たちと、どこまでも澄んだ空の色。
時にすべて灰色とし、すべて泥とする世界。

どうやらこの文章には終わりがないようだ。
織物とは終わりがないものだ。
創作物とは終わりを自分で決めるものだ。

もうほとんど詩、散文と化してしまったこれがどうしたら終わるのだろうと思って、数日書き溜め、削ってはしていたこの文章だが、ようやくトドメと思われるものを発見したので、最後に引用して終わることにする。

白水社Exlibris アザリーン・ヴァンデアフリートオルーミ(木原善彦訳)「私はゼブラ」65頁

 それからわずか数時間後、私は次の結論に達した。キャシー・アッカーの『ドン・キホーテ』とボルヘスの「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」はミゲル・デ・セルバンテスが書いた元の『ドン・キホーテ』の歪んだ複製である。さらに、セルバンテスの『ドン・キホーテ』自体も他のテキストの複製であり、巨大な文学的母胎の中で過去の騎士道物語が懐胎し、再び生まれる準備を整えているのだ、と。私はそのとき、非常に重要なことに気づいた。テキストは互いに異花受粉をするため、何世紀もの時代を飛び越えているのだ。
 私は当たり前のようにこう宣言した。「文学は十分な自己認識を具えているので、病原菌と同様に自己を長らえる方法を熟知している。すべてのテキストは突然変異体であり、分身だ!」。

何かに取り憑かれるという表現は本当らしい。
「私はゼブラ」のカバー絵の話はいずれ。




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