71-80|#140字小説

71 / 2018.07.01
夜風のために開けたままだった窓から、一匹の蝉が侵入した。息ばかりの悲鳴をあげて、浴室に逃げ込む。焦る指先で液晶画面に触れた。こんなことで、離れた距離を煩うなんて。「こんな時間に何」「ねえ、そろそろ一緒に暮らしてくれない?」独りじゃ無理だよ。電波の向こう岸で、あなたが笑う音がした。/ 透明な君は夏の恋人1周年「蝉」

72 / 2018.07.02
一度も水泳の授業に出席しなかった彼女が、制服のままプールサイドに立っていた。「もう補講終わったよ?」「知ってる」軽快に服を脱ぎ捨てていくその肌には、紫陽花が咲いたような、無数の痣があった。「見苦しくてごめんね」裸のまま、彼女は水に飛び込む。いま、その花びらは水の中にかえっていく。/ 透明な君は夏の恋人1周年「補講」

73 / 2018.07.03
何かが始まる場所に着きたくて、目的地もなく切符を買った。行こうと思えば、私はどこにだってたどり着く。それは持て余した優しさだった。流れる景色、よく知る場所だけが目につくのはなぜだろう。何も始まらなかった場所なのに。そんなことを思いながら、あなたの駅が過ぎていくようすを眺めていた。/ 透明な君は夏の恋人1周年「電車」

74 / 2018.07.04
ひどく大切にする人だった。何でも。寝室の隅で、すやすやと泳ぐ金魚はもうすぐ死ぬらしい。花びらのような赤いレースを追いかける。「私のことも飼い殺してくれる?」先に死ぬなんてゆるさないよ。あぶくのような息で眠るその唇を塞いでは、しかめられた眉間に指を添えて、あなたの呼吸を探していた。/ 透明な君は夏の恋人1周年「金魚」

75 / 2018.07.05
夢の中で会うおとこを忘れられないと、そんなことも知らないで、恋人は扇風機の前に寝そべっている。片手にうちわを持って。同じようなものはふたつも要らなかった。「私たち、結婚する?」「どっちでも」お前がいたらそれで。と、ふいに絶望をしそうになって、うちわを奪って、欲のないその顔を扇ぐ。/ 透明な君は夏の恋人1周年「うちわ」

76 / 2018.07.06
梅雨が明けても雨が降るなら、終わりの宣言なんて要らない気がした。じらじら、湿気の名残に、窒息だと勘違いをしそうになる。真夏の夜でもないのに、幻みたいな夜のこと。あなたが消えかけた夜のこと。雨音はどこか灰色で、ならば私が汚してもいいんじゃない、なんて、そんな愚かさで泣き叫び続けた。/ 透明な君は夏の恋人1周年「梅雨」

77 / 2018.07.08
そっち崩れるよ。あなたは反対側をつつく。あなたのやさしさでみぞれ味になったかき氷は、シロップと氷の境目もわからないのに、けれど、きちんと甘い。「氷とシロップ、馬鹿みたいな味がするな」「でも甘いよ」「やさしいな」透明な氷があなたの声に反射して、目が眩む。今、あなたとの夢を見ていた。/ 透明な君は夏の恋人1周年「かき氷」

78 / 2018.07.08
催涙雨。今日は七夕、けれど雨が降っていた。それなのに私は恋人と会えてしまう。私たちは何者でもない、だから平穏な日常がある。でも、そのおだやかさがどうしようにも。催し種もわからずに、どうして泣きたくなるのだろう。灰色の滴が目の縁に触れて、そっと瞼を降ろす。頬に透き通る熱がこぼれた。/ 透明な君は夏の恋人1周年「七夕」

79 / 2018.07.09
目覚める度に律儀に絶望をする、と、そんな私をゆるしてほしかった。「おはよう、早起きだね」要らない夢でもみた?髪のすき間に指を通されて、私の朝が花開く。私が目覚めないとしたら。朝顔みたいに一人でにあなたが咲う朝を想像して、そのうつくしさに目眩がした。そろそろと、やさしい胸に近づく。/ 透明な君は夏の恋人1周年「朝顔」

80 / 2018.07.09
手術は成功しました、と、白衣を着た人が言ったのに、その人は余計に生がなくなった気がした。骨と皮ばかりの顔を見て、もう痩せるところなどないと思う、それなのにこの人はいつまでも痩せていく。「どこにいたんだい」「ずっとここにいたよ」始まりのわからない振動が響く。あなたの皺を数えていた。

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