131-140|#140字小説

131 / 2018.09.04
びょおびょおと、風音が部屋のまわりを囲んでいる。聴き覚えのある音声だわ、と思ったら、それは妹の泣き声だった。いっぺん泣きだすと、手をつけられなかった妹の。なつかしい音を思い出して、元気ですか?真白な紙に書いてみる。0.07mmのりりしい筆跡は存外うつくしく、誇らしいこころで光に透かす。

132 / 2018.09.08
わたしは名前にまどわされる。きれいな名前も凡庸な名前も。まるきり素晴らしい。硝子色のような世界で、要らないものは何も無かった。わたし以外は。それなのに。恋人、妻、母。あなたは何度だってわたしを意味づけるから。雪のささくれにふれるように、わたしはわたしをそっと抱きしめてしまうのだ。

133 / 2018.09.11
大切なオルゴールを壊されていた。音が流れない箱を手渡して、あなたはしつこく謝ってくれる。なのに。ふと、おだやかな自分に気づく。もう、大切にしなくてよい。終わりがくれる今を愛する、その動作に、わたしはきっと辟易していて。終わりを済ませたものを撫ぜた。あなたにはまだ、終わりがこない。

134 / 2018.09.11
天使みたい。そう呟けば、あなたがきょとんとする。「なに?」「あなたの顔はきれいすぎる」すると、少しばかり頷いて「ばれたら駄目だ」と、それはそれはうつくしすぎる翼を伸ばして、光の空に舞ってーー。と、目が覚めた。隣にはきれいに眠る背中があって、羽などもぎ取るよ、とその肩甲骨に触れる。

135 / 2018.09.18
紅茶がこぼれて、溜まるそれはあなたの心臓みたいだった。これを拭いたら、ねむったまま死ぬかな。夜のしじまが耳奥にこびりつく。ぼろ切れのような布巾で赤茶色を拭えば、ふと、あなたが唸る。でも生きていた。嘘でも心停止すれば、ぴたりと抱いて、私の心臓を媒介して、そうして生かしてあげるのに。

136 / 2018.09.19
突然の雨。あなたは私の手を握り、水が溜まる窪みを蹴って、蹴って。部屋につくと濡れねずみが二匹。裸ん坊になって、風呂に入る。熱い飛沫。狭いシャワーの中、なんてセクシー、と背中に張り付いて。いつまでもこうしていたいと思った。とくべつすぎるあなたと、突然降りだす日々に濡れそぼりながら。

137/ 2018.09.24
今年最後の桃はずるずる、私のからだもずるずるで。そろそろ終わりにするか。だらだらと畳に寝そべるきみに「そうね」と呟いた、くちびるはとてもうっかりしていた。私、桃の皮だって剥けるし、きみの屁理屈だって全部飲み込めるのに。伸びたシャツで扇風機にふかれながら、晩夏のきみの背中をつつく。

138 / 2018.09.29
キッチンはいっとう美しい場所だ。私は包丁を持ち、火を使い、いのちを解体していくのに、私におそろしいことは何も起こらない。ぼぼ、と煮えたつ鍋の音は祈りの歌のようで、ふと、涙が落ちる。幾ばくの絶望を抱えて、懸命に生きた魚をながめて、あなただけを待つことができる代わりのない場所だった。

139 / 2018.10.01
どうしてだか、要らないものを放置してしまう。冷蔵庫の奥、作り置きのカレーはずいぶんと前のもの。「あなた、また腐らせて」記憶の中のきみが、呆れたようにタッパーを取り出す。なのに、なぜ。異臭もわたしも、変わらずにあって、きみだけがここにいない。腐ったわたしたちだけが呆然と増えていく。

140 / 2018.10.02
上手にシャンプーを詰め替える姿を眺めた。「あなたは不器用だから」ボトルの中はいつだってたぷたぷで、それをあなたのやさしさだと思っていた。かちゃん。銀色の鍵を差し込んで回せば、解錠されるつめたい空間。あなたは恋人の詰め替えも上手だね。ていねいすぎる手つきをまねて、シャンプーを注ぐ。

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