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交換日記(5)世界の終りと光れないふり

<1周目のお題:世界の終りと>

どうやらずっと、暗やみは光れないふりをしていたようだ。

網戸を残したまま窓をあけると、べりべり、と剥がれるようにして隙間ができた。夜中の三時のこと。わたしの部屋の北側の窓は大きな国道に面していて、まったくの深夜にもかかわらず、車がまばらに走っていた。みんなこんな時間にどこに行くのだろう。ごうごうとした音には似合わない微風が吹きつく。胎児が羊水のなかに浮かんでいるような生温さで、さやさやと光る暗やみを眺める。

思っていたよりもずっと、夜はあかるかった。どんな夜にも光はあるらしい。信号機、街灯、カラオケ屋のネオンの看板、そんなものたちから出発した光が、そろそろと曲がって、わたしの部屋の窓の隙間にふりそそぐ。それは、花に水をやるときのじょうろの水の膨らみのように。

あまり、世界の終りについて考えたことがなかった。だけど「終り」と聞くと、なんとなく、暗やみを思い浮かべる。わたしにとって、「終わること」はとても淋しいことで、それはどんなに陽気な結末を迎えたものでも同じだった。以前、お世話になった方々を送り出す催しがあったとき、それはそれは楽しい時間で、ずっと頬がひきつるほどわらったままだったのに、家に帰ってひとりになると、ふと冷蔵庫の扉を閉ざされたように暗やみに閉じ込められたのだった。ああ、終わったんだ。それまでの記憶や思い出が張りつめるように膨らんで、限界の線に破られて破裂する。破裂した思い出や淋しさを掴もうとして、それらがどこに消えるのか、わからなくなってしまう。

世界の終りも、そんなものなのではないか、と。世界中の終末の糸口がむくむくと膨らんで、ぱつぱつとした表膜を、蜂のお尻の針のような何気ないものでつつかれて、するするしゅ、と暗やみにしぼんでいくような。そのしぼんでいく世界を想像することは絶望の、あるいは絶望のような感覚に似ていた。絶望、とても暗やみと親しいことばである。

でも。本当は、そうではないのかもしれない。暗やみも、世界の終りも、光れないふりをしていただけなのだ、きっと。

目前に広がる暗やみに目が眩む。微かににぎやかな暗やみ。車が走る、ヘッドライトが線を描く、風が吹きつく、車が通らない瞬間でも、信号機は黄色から赤に変わったりする。あかるいのだ。どことなく。こんな暗やみで迎える終末を想像してみると、なんとも無邪気な世界の終りになってしまう。終わってもすぐに、すすす、と、また始まってしまうような。素知らぬ顔をして、当たり前のような声で「あら、過去の世界は終わったのだから、また新しい世界が始まって当然でしょう」と。終わったから、始まる。始まるために、終わる。なんて輝かしいような終末なのだろう。

ひょっとすると終末前夜にもなりうる今夜も、さやさやとにぶい光に照らされている。胎児が羊水に呼吸を浸すみたいに、静かに。

ああ、なんだ。暗やみも終末も、光れるんだ。

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