111-120|#140字小説

111 / 2018.08.07
からん、と涼しい音がする。聞き慣れた声がじぶんを呼んで、けれどずっと庭先を眺めた。世話好きが育てた黄色がゆれる。呆れたように繰り返される「あなた」に、ようやっと腰をあげて。冷えた檸檬水をひと口。あまい酸味にさされた舌では、上手に愛もつむげやしない。/
白紙の夏を君と 檸檬水/side-B

112 / 2018.08.09
ドライヤーでうなじを乾かされる。あんまりにやさしい手つきで、時間をかけてくれるから、私のこころまで乾いてしまいそうになった。あなたは何も話してくれない。部屋に響くのはそよ風のような音だけ。しずかで穏やかすぎる空間。でも、私。本当はもっとやさしくされたくて、やさしくしてあげたくて。

113 / 2018.08.10
「かもしれない」という表現は、あいまいなように見えて、私にとっては確固たるものだった。あなたについて断定できることなどなにもなくて。ぼさぼさの眉毛も、脱いだままのくつ下も、毛羽立った歯ブラシも、少しくさい寝起きの口づけも、ぜんぶ。すきだったのかもしれないのよ。なにもかも。きっと。

114 / 2018.08.12
「秋にはおさつま芋をたべようね」お秋刀魚もいいかも。お素麺を食べながら「あなたは何だって、おをつけたがるね」と。呆れたように見やるひとがいる。好きなものにはていねいにしてやりたかった。「おいしい」出汁に沈む椎茸をほおばるひと。私が苦手な椎茸を好きなひと。私のいとしい、お旦那さん。

115 / 2018.08.13
いつからか、白線遊びをしなくなって、それは視野がひろがった証であるのかもしれない。私以外にもたくさんの生き物がいて、私のことを見張っている。だけれど、どうしようもなく、白線だけを歩きたい瞬間があるのだ。とおくでバイクの轟く音が聴こえる深夜の横断歩道で。高く手のひらを伸ばしながら。

116 / 2018.08.13
夜の空がひっくり返されたのだろう。真っ暗な部屋に硝子の破片がしゃららと散らばっていた。なんだ、夜空などこんなものか、と鳴き声の元に近づく。お山のできた布団の中。布越しのまるい背中をさすった。「案外、お星なんて綺麗じゃないねえ」きみが涙する嗚咽のほうがずっと手に入れたいものだった。

117 / 2018.08.15
砂浜に寝そべるあなたに、「汚れてしまうわ」と、ほとんど辟易したはずだったのに。シャワーも浴びずにベッドに飛び乗るものだから、あなたの襟元からしゃらしゃらと砂が溢れる。にくたらしくて、かしましい。本当は私だって、うんと何かを汚していたい。そんなむじゃきなままでいたかった。私だって。

118 / 2018.08.15
檸檬の正しい絞り方を教えたのに、あなたはいつも皮を上向きにする。紅茶で割ったウイスキーは私にはつよすぎて、くらり。あなたの耳朶がひかる。ピアスなんて洒落ちゃって。と酔っ払いらしく絡みつけば、「はいはい」と撫でられた前髪。なんだって今夜は。こんなにもきらきらを纏っているのだろうね。

119 / 2018.08.18
音の悪いラジオから古びた歌謡曲が流れて、でも、わたしたちの泣き声のほうがもっと大きな音声だった。時折、わたしたちはぐずったように泣きわめく。きらいな過去に、濁ったこれからに、持て余したうれしい日々に戸惑って。このまま泣き疲れたら、部屋中に花弁を敷き詰めて、ずっと眠ってしまおうね。

120 / 2018.08.18
見えないものから散りゆくことを知っていた。沸騰した鍋の火を止めて、明かりを消して、薄がりの中でひとりきり。何が離れていったのか、わからないまま暗闇をおそれた。窓の外を雨がすべり抜ける。残ったのはわたしの手におえないものだけで、茹ですぎたパスタと、濡れそぼる夜の雨のしずけさだけで。

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