51-60|#140字小説

51 / 2018.04.06
忘れられないひとがいる。でも、忘れてしまったひとを思い出せないより、ずっともっと、私の性に合っていた。蜘蛛の巣がはった自動販売機の、百円の珈琲。変わりなく薄いそれを飲むと、思い出す横顔がある。大丈夫、まだ残っている。自分の記憶をたしかめて、見上げた星は風に揺れて、幸せであれ、と。

52 / 2018.04.06
肉じゃがすらそんなにセクシーに食べるなんて、と、溜息をついた。桜の枝の隙間から、こぼれる青さにきみは照らされている。シートなんて要らない、と、敷き詰められた花びらの上に座り込む、その無防備さが好きだった。おいしいと笑うきみ。当たり前みたいで困る。せかいが終わるなら昨日がよかった。

53 / 2018.04.08
おかえりと言ってみて、合っていたかな、と思った。二人きりで生活するということをしたことがなくて、知らなかった。一緒に暮らすというのは意外と難しい。どんな顔をして待てばいいのかわからなくなる。玄関に佇むきみも困ったような顔で固まるから、もう一度言えば、綻んだ声でただいま、だなんて。

54 / 2018.04.20
きれいな三日月を写真におさめようとすると、携帯の画面にうつる月はまるい光源になっていた。肉眼では欠けている部分も、無くなってしまうとは。見えているものだけが全てじゃない、と知った。彼のSNSを開く。元気に笑う彼の写真を見て電話をかけた。「元気?」欠けているなら補い合おうよ、なんて。

55 / 2018.04.29
カーテンを開けて「今日も汚い空だな」と笑う、その背中の震えが朝の光に溶け込もうとしていた。こうばしい珈琲の香りが部屋を満たす、いつもどおりのただの日常。なのに、かけがえのないとくべつみたいに思ってしまう。汚い空の下あきらめて生きようか。震えたきみの声に、わたしも「うん」と頷いた。

56 / 2018.05.06
退屈をしたくなるような、骨を鳴らして過ごすような日常がきみの傍にはあって、嬉しくて飛び跳ねようとしたら地面から程遠い場所にいると気づいた。手のひらは透けていて、それなのに血管は見えない。きっとわたしは死んでいて、それでもきみに会いに来たのか。不毛だ、と笑いとばしてやったのだった。

57 / 2018.05.07
気がついたら、家族とはずっと折り合いが悪かった。だから、戸惑ってしまう。眠る前に隣に誰かがいることに。その誰かの手のひらの熱が頬を往復することに。その熱を作る体温が、その体温の持ち主が、あんまりにやさしくて嫌になる。毎晩泣きそうになるのを確かめて、次に瞼をあげるのが億劫になった。

58 / 2018.05.13
取りこぼしたひかりがきれい。それだけを伝えたかったのに、都合の悪いくちびるは思ってもいない言葉ばかりを並べてみせた。こんなときばかり饒舌で、言葉は呼吸の真似をして止まってはくれない。泣きながら喚くわたしを、困った瞳で「いいんだよ」と撫でる声が、何よりも悲しい断罪のような気がした。

59 / 2018.05.26
「少しだけ、息をしないでいて」しずかな部屋で、呼吸は大袈裟すぎた。吸って吐くだけの音が要らなかった。おとこの胸に耳を当てると、皮膚の奥から聴こえる心音が少しずつ速まっていく気がして頬が緩んだ、そんな記憶を思い出す。どうして、眼の前で光る心電図の波は、こんなにもおだやかなのだろう。

60 / 2018.05.27
潮の風に溶かされながら、夕陽の赤さを歩く。さざ波の音が優しい、そのことを忘れたくなかった。「うまく撮れた?」「うん」付箋をつけるように、眼の前の風景を切り取る。いつか、今日を思い出すときに、この写真が栞となってくれればいい。靴中の砂を踏んで、手のひらが重なりあった熱を握りしめた。

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