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第3回 宮沢賢治:宮沢家の浄土真宗信仰①

宮沢家の浄土真宗信仰

回に改めて浄土真宗信仰について追加して記していこう。著者が知っている範囲は、小説『銀河鉄道の父』の範囲とほとんど変わらない。安浄寺の檀家総代を務める家柄だったということである。ただし、信心深いことは賢治が、幼児の頃「正信偈」と「白骨の御文」を暗唱するような家庭環境であったことからも容易に想像できる。


現、日蓮宗身照寺にて。右、宮沢家の墓。
左、宮沢賢治供養塔

正信偈

正しくは、正信念仏偈という。Wikipediaに頼るが、偈(げ、サンスクリット語: gāthā)とは、仏典のなかで、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえるのに韻文の形式で述べたもの、という。
話は戻るが、「正信偈」は親鸞の著書『教行信証』の「行巻」の末尾に所収の偈文である。浄土真宗の要義大綱を七言60行120句の偈文にまとめたものである。本願寺第8世蓮如によって、僧俗の間で朝暮の勤行として読誦するよう制定され、現在も行われている。

白骨の御文章


浄土真宗本願寺八世蓮如が撰述した御文の5帖目第16通「白骨」(はっこつ)は、御文章の中でも特に有名なものである。存覚の『存覚法語』を基に作られている。内容は人間のはかなさを諭したもので、葬儀や法事などで用いられている。

宮沢賢治の歎異抄

賢治は、『歎異抄』についても信仰告白を父、政次郎宛に手紙で行っている。

御心配御用に小生はすでに道を得候 歎異鈔の第一頁を以て小生の全信仰と致し候 もし尽くを小生のものとなし得ずとするも八分迄は得会申し候 念仏も唱へ居り候。

中学四年、父政次郎宛の手紙
1912.11.3

『歎異鈔』とも言う。『歎異抄』(たんにしょう)は、鎌倉時代後期に書かれた日本の仏教書である。 作者は、親鸞に師事した河和田の唯円とされる。 書名は、親鸞滅後に浄土真宗の教団内に湧き上がった親鸞の真信に違う異義・異端を嘆いたものである。 
ここにおいては、日蓮宗に傾倒した賢治を見い出すことはできない。ただし、仏教徒、宮沢賢治を見い出すことは可能であろう。


宮沢賢治記念館にて

島地大等

同日の手紙においては、島地大等との交際についても賢治は記載している。島地大等とはどんな人物か。

島地大等(しまじ だいとう、1875年〈明治8年〉10月8日- 1927年〈昭和2年〉7月4日)は、浄土真宗の僧侶。旧姓は姫宮、幼名は等。新潟県頸城郡三郷村(現・上越市)出身。4年間の上京を経て、1893年に西本願寺の文学寮(現龍谷大学)に入学した。1897年に大学林へ進学、1899年は大学林高等科へ進学。1902年に島地黙雷の養嗣子(法嗣)となり、黙雷亡き後は盛岡の願教寺住職となる。曹洞宗大学(現駒澤大学)、日蓮宗大学(現立正大学)、東洋大学などで教え、1923年から東京帝国大学でインド哲学を教えた。数え53歳で死去。子の島地黙猊が跡を継ぎ、『天台教学史』など多くの遺稿が刊行された。

また、第2回note で記した、第13回の花巻夏期仏教講習会の講師を島地大等が行っている。

このような人物との交際が、賢治を深い仏教徒にしていったのではないか。国柱会の田中智学との出会いの前にこのような出会いがあったことは非常に重要な事と思われる。

宮沢賢治記念館にて

終わりに

今、日蓮宗を含めて感じることは圧倒的に仏教の素養が日本民族で失われていると感じる。キリスト教についても、同様なのかもしれない。日々、研鑽あるのみですね🙏

参考文献
『宮澤賢治と法華経』森荘已池編
『宮沢賢治と法華経について』田口昭典
Wikipedia 

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