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第19回 サラリーマン賢治が働いた 旧東北砕石工場跡 を訪ねて

旧東北砕石工場跡 を訪ねて

旧東北砕石工場 工場主 鈴木東蔵

場所は一関市東山町にあります。もう少し奥にいけば猊鼻渓という観光地を控えています。移動は車で平泉前沢インターから約25分。ナビでないと全くわからないルートで到着しました。今回は、石と賢治のミュージアム訪問と分けますので簡潔に記していきます。

看板
登録有形文化財の銘

概要ですがHPから引用します。

旧東北砕石工場は、地元で産出された石灰岩の砕石を行い、酸性土壌を中和する石灰石粉を製造する施設として、大正13年に建設されました。その後、機械の増設に併せて工場自体も拡張され、現在の形状となりました。この石灰石粉は、後に宮沢賢治によって「肥料用炭酸石灰(タンカル)」と命名され、ここで製造された製品は当時の雫石町の小岩井農場に輸送され、土壌改良剤として使用されました。

平成6年に旧東山町に寄贈され、平成8年に国の登録有形文化財に登録されたこの建物は、晩年の宮沢賢治が技師として働いたことでも知られる砕石工場の遺構で、石と賢治のミュージアム(太陽と風の家)として公開されています。

HPより引用

サラリーマン賢治の誕生ですね。鈴木東蔵はかなり金銭面で苦しい経営状態だったようで、当初昭和四年、鈴木東蔵が賢治に肥料用石灰の販売を相談することからはじまりました。賢治が勤務するにあたり父政次郎が出資する条件で昭和六年ニ月技師として採用して貰い、自ら販売にも当たることになります。ここでも政次郎の親バカぶりが見受けられますね。

当時町長の給料が35円の時分に50円貰う契約でしたが、金銭面が間に合わず石灰の現物支給をされることもあったようです。

なれない苦労から再び身体を壊すことになり、九月二十日  商品売り込みのため上京中に発熱で倒れ、旅館で家族に遺書を書くことになります。そして九月二十八日 花巻に帰り、再び療養生活を送ることになりました。

ここからは、皆さんがご存知の雨ニモマケズ手帳に昭和六年十一月三日雨ニモマケズ詩が記されることになるのです。非常に短い時間でしたが農民の為に命がけの仕事を成し遂げました。

鉱山跡と同じ印象を受けましたので、何枚か写真を掲載します。

集合写真レプリカ 奥右から4番目に、宮沢賢治
昭和六年三月二十六日撮影

当時の坑道跡
案内板はありましたが、奥には進めませんでした。
石灰石粉の製造図
石灰石から、タンカル迄のサンプル

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