『死恐怖症』と進路選択①

こんばんは。

さて、前回は『なぜ自分が文章を書いてみようと思ったか』についてまとめたのですが、自己紹介をしていませんでした。そこで、死恐怖症に絡めながらこれまでの生き方を振り返ってみたいと思います。


私は今は社会人ですが、死恐怖症に囚われ始めたのは中学生の頃に遡ります。そして、その悩みは大学、社会人といった人生の岐路において進路選択に大きな影響を与え続けてきました。

私は中高生の頃は主に数学と物理を勉強していました。

それは、単純に理数系が好きだったからというのもありますが、それだけではありません。

この世界の構造について理解できれば、自分が抱く死への恐怖も和らぐのではないかという漠然とした期待があってのことでした。

『よくわからないから不安になるのだ。それなら、不安の原因を理解してコントロールすればいい!』という理屈です。

ですが、その期待は大きく裏切られることになります。


大学1~2年生と教科書を勉強していく中で、私から見て科学とは以下のようなものだと理解しました。

・現在主流の理論は、あくまで『これまで長い間観測された実験的事実と矛盾していない』から支持されているのであって、ある日突然その理論を覆すデータが取れる可能性もある。

・そうした理論は『これまでのデータをどう解釈したら一番シンプルで合理的になるか』をまとめた解釈方法の1例に過ぎない。研究が進むとともに全然違う解釈が主流になることもある。

・かつての天才たち(我々も名前を知っているようなアインシュタイン等)でさえ、後に誤りだったと言われる理論を信じていたこともある(宇宙項など)。

『科学は万能で、学んでいけば世界の秘密に迫ることが出来る』と信じていて私にとって、こうした事実はひどく頼りなく感じられました。

まだまだ素粒子や宇宙は謎に包まれていて、人類を寄せ付けない闇の中に数々の天才たちが小さな小さな明かりを灯す営みを繰り返しているようです。

そんな中で天才でも何でもない自分がこの分野を生涯かけて研究したとしても、どうやらこの宇宙が何なのかについては何もわからないまま死ぬだけな気がします。

ビッグバンが何だったのか、この宇宙が始まる前は何があったのか、宇宙はどのように終わり、その後は何が待っているのか。この宇宙の外側には何があるのか。

そうした『私の死よりずっと先にあるもの』への答えは、どう足掻いても自分が生きている間に知ることはできなさそうでした。

(※大学の教科書を少しかじった程度の人間が大変生意気なことを書いたかもしれません。その道をずっと頑張っている方々やこれまでの科学の歴史を心から尊敬しています)



このような状況に、私は手塚治虫先生の絶筆の『ネオ・ファウスト』を思い出しました。

ネオ・ファウスト (手塚治虫全集)より引用

主人公の一ノ関教授は、人生の全てを研究に捧げた先生です。しかし一生を費やしても宇宙の真理について何一つ理解できないまま老人になってしまい、その生涯の無念を嘆くところから物語が始まっていきます。(なお、一ノ関教授は何度もノーベル賞候補に上がるほどの世界的権威です。それでも教授が本当に知りたかったもの=宇宙の真理には手が届かなかったということですね)

手塚先生が死の間際にこの話を描いていたことが、私の胸に重く響いてきます。

もし私が生涯を宇宙や死への研究に捧げたとしたら、この一ノ関教授のように無念だけを抱えて死んでいくのだろうか?そんなわかりきっている結末のために一度きりの人生を使ってしまって本当に良いのか?

……そんな悩みの中、大学の進振り(進学先の学部選択)を行う時期が来ました。
(つづく)

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