ともに 〜阪神淡路大震災備忘録〜

はじめに

 こんにちは、iwate EVOLVEDです。
 実態こそゲームセンター支援団体ですが、メンバーの大半は30代以上であり、度々起こる震災とは無関係ではない人生を送ってきました。
 岩手の名を冠していることから、東日本大震災(3.11)との関係も深く、いつかそこに触れよう、でもまだその日ではないかなと先延ばしにする中で発生した能登半島地震。受けた衝撃は非常に大きいものでした。

 震災の記憶との踏ん切りを付ける為には10年、20年、30年とキリの良い時期を選ぶのは一つの手であり、この記事も本来は来年、1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災から30年のタイミングで公開しようと考えていました。

 しかし震災はいつ何処で起きるか分からず、震災というものを「語り継ぐ」目的においては、時や場合をそこまで選ぶ必要は無い。むしろ書き起こせる時に書き起こして置いておくべきなのではと考えました。
 今回の震災での被害が無く日常を過ごせる地域にいて、かつ過去の震災の記憶がある者にできること、日常を過ごしつつ震災に支援できるタイミングを待つことに加え、記憶を伝えて今後の震災に備える心を広めることなのではないかと思います。

 タイトルの「ともに」は2024年、阪神淡路大震災「1.17のつどい」灯籠を使って形づくる文字から引用致しました。

諸注意

 以下は1995年1月17日午前5時46分に発生した阪神淡路大震災の、当時周辺地域に住んでいた2名(AとB)による記憶の記録です。
 これを語り合ったのが2023年3月11日、その時点で2名にとって28年前の記憶となっており細かい部分は曖昧です。ですが確実にショッキングな内容を含みます。
 いくら約30年前とは言え各々「語りたくないことは語れない」のですが、時間の経過とともにある程度は震災の生々しい光景を語れるようになり、同時にそれも含めて現実として伝えなければならないと感じたとのことです。
 記事として纏める際にもそこはカットしておりませんので、それを読む覚悟ができるほど元気な時にお読み下さい。
 1995年と2024年では様々なことが異なります。今のように個人が被災地で写真や動画を撮り、SNSを通じて共有できる状況は文字通り「遠い未来」であった1995年の記録において、伝わらなさそうな部分は適宜注釈を入れていきます。

CASE1: Aさん(大阪市平野区、震度4)

 当時大阪市平野区に住む小学校低学年だったAさんは、一軒家の三階の一室、二段ベッドの上段で揺れを感じて目を覚ましました。
 下段にいる弟が悪戯でベッドを揺らしているものと考えて文句を言いつつ起き上がると、同じ部屋で寝ていた両親が慌てふためいていました。
 生まれて初めて見る光景の中、天井に吊られた電灯はぶらぶらと揺れるのを見て、何かは分からないが大変なことが起きていると布団に潜り込み物事が収まるのを待ちました。

 大きな揺れは収まったものの、小刻みな揺れが続き、次第に何とも言えない恐怖心が湧いて来てベッドから降りて両親に駆け寄りました。
 被害としては家の中のものが多少散乱したくらい、父親が棚に置いていたお気に入りの酒瓶が落ちて割れたくらいで済みました。
 その後は普通に学校に通いつつも、テレビや新聞で伝えられる被災地の光景に恐怖し、火事を防ぐためにガスの元栓を閉めること、玄関の扉が歪んで外に出られなくなることを防ぐために扉を開けることを学び、揺れが来る度に実践していました。
 同じく市内に住んでいた母方の祖父母の家はヒビが入ったので建て直されました。

 小学生の心に刻まれた震災の衝撃は、その後29年で様々な震災を他人事とは思わず吸収する糧として今も残っているとのことでした。

CASE2: Bさん(神戸市中央区、震度6)

 当時20代後半、仕事の都合で神戸市中央区の新神戸駅近くに住んでいたBさんは、マンションの1階の一室で一人暮らししていました。
 丁度前日から大学時代の後輩が大阪から遊びにきており、後輩は17日の午前3時頃に帰って奇跡的に難を逃れました。(注: 1995年はまだ1月15日が成人の日で祝日であり、15日が日曜日のため16日が振替休日だった)
 後輩を送り出して寝ていたBさんを揺れが襲い、目を覚まし何が起こったかを把握する以前に様々なものが降り注ぎ、「これでお陀仏か」と思ったBさんですが、幸いにもそれ以上のことは起きない中、思い出したくないような音を聞き、これは地震なのではないかと考えつつも何が起きているかは理解できない状態でした。
 当時、関西には地震は無いと言われていて、これが地震であるという実感が持てなかったそうです。
 その内周辺の灯りが消え、揺れが収まると周辺から「誰々(近隣住民の誰か)、大丈夫か!?」という声が聞こえてくるようになり、とんでもないことが起きたと思ってしばらく外に出る勇気もない状態でした。
 目の前が公園で、マンションのドアのガラスの隙間から見てみると人が沢山いるのが見えました。恐る恐る外に出て見ると周りの風景が世紀末としか表現できない状態でした。

 見たことのない荒廃した町を歩き、三宮の商店街を抜けて三宮駅に着くも電車は動いていません。
 何もできないので自室に戻ると会社の同期が「俺の家半壊した」と言って訪ねてきて、「泊めてくれる?」と言うので良いよと寄せたものの、電気も水もガスも止まっていて、二人でただ時を過ごしてた曖昧な記憶があるとのことでした。(注: 当時PHSは無く携帯電話もまだそんなに普及していない状態で、今のようにスマホで通信も何もできない時代)
 その内に電気が復旧し、テレビが見れたので見て、改めてとんでもないことになっていることを知りました。

 夜になり、右側、長田区の方を見ると空が真っ赤になっていました。映画で見たような光景で、とても記憶に残っているそうです。
 それからしばらく、街中では火事が発生していきました。家が一軒燃え始めたり、マンションから煙が出てくるといったことが時間差で起きていきました。
 また、周辺には数多くのビルが立っており、斜めになっているビルも見られ、それが倒れる音がしました。恐らくあのビルが倒れたのではと外に出てみるも、砂埃で景色が見えませんでした。街中にガスの臭いが充満していました。

 近くに異人館があり、その辺りを見回りに行くと沢山の人がいて、立ち止まることもできず歩く中、主婦らしき三人組が「ウチの旦那死んだ」だとかそう言うことを平然と話すのが聞こえ、強く記憶に残っているそうです。
 また、ラブホテルの上の方からカーテンを繫げて降りてくる人も見ました。色々なことが起こる中、それぞれが生きるのに必死で、仕方の無いことなんだなと思ったそうです。
 様々な人と擦れ違う中、家族を亡くしたらしく言動が妙な人も見ました。

 そうして数日を同期と共に過ごす中、同期が家に荷物を取りに帰りたいと言い始めました。半壊している場所だし怖いと伝えるも、大事なものがあるからと言われて同行することになりました。
 実際に行って目にすると確かに同期が部屋を借りていた集団住宅が半壊していました。扉を見た時点で危ないと分かる状態でしたが、そこを潜り抜けて大事なものを取ってくるのを手伝って欲しいと言われて手伝いました。
 食べ物でも出てくるのかと思いつつ、PCもあったのでそちらかと問うも違うと言われ、出てきたのは何かが入った重たい段ボールでした。
 それを持ち帰りつつ、妙な状態でやっている店のようなものを見付けたので、お腹も空いたので何か買うことにしました。
 店の設備も壊れているのか冷凍の肉まんがそのまま出ており、恐らくは通常の価格以上だったものの買い、持って帰ったものの溶かす手段がありません。
 放置しますが冬なので全く溶ける気配もなく、栄養を摂る為に口にし、まだ餡が凍っている肉まんを齧りつつ、先程の段ボールの中身を開けました。
 それまで同期が大事なものと口を濁していたものの正体は18禁漫画でした。この非常事態に一体何を持って帰らせたんだと憤慨したものの、本人は暇だったからこれが読みたかったと言うので、他に何も無いので付き合いで読みました。人には人の大事なものがあるのだなと印象に残っているそうです。
 今から考えると本人にとってはそれがその切羽詰まった状況に於ける気晴らしだったのかも知れないと振り返るものの、やっぱり解せないとのことです。

 そこからまた記憶が朧げになるものの、2、3日後には阪急電車が西宮北口までは走っているという情報が出てきました。
 連絡手段も何も無く、大阪も同じ状況かも知れないとは思いつつも実家に帰る選択をしました。同期は家に残しました。
 JR新神戸駅から約半日かけて歩きましたが、道中はやはり世紀末の様相で行列ができており、毛布を被って歩く人もいました。
 人の流れに沿って歩く中、一定の距離で号外の塊で置いてあるものの、読む気は起きませんでした。
 東灘区は亡くなっておられる方も多く、倒壊した家も数多く見られ、家の前に「誰々は無事です」等と書いてある看板が立っていました。
 携帯も普及しておらず撮れてはいないものの記憶にはあるとのことです。
 西宮北口駅まではかなり長い道に感じましたが何とか辿り着き、駅で空前絶後の大行列を目にしました。1km弱はあった気がするとのことです。
 それでも乗らないと帰れないので、待ちに待った後電車に乗り、梅田に着きました。

参考: 新神戸駅、三ノ宮駅、東灘区、西宮北口駅の位置関係

 そこには別世界が広がっていました。地震があったとは思えないくらい平和でした。
 実家に帰ると母親から開口一番「もうアンタ死んだと思ってたけど」と言われました。
 地震が初めてだったことも、連絡が容易に取れない時代だったこともあり、余計に心配させてしまったかも知れないとのことでした。

 その後は実家で過ごしながら復興を待つのですが、それは震災そのもの経験ではないのかなあとのことでした。

おわりに

 実際にはこの話は終始大阪弁で止めどなく行われていたのですが、淡々と伝えるべきことを伝えるため会話文を除き標準語に変換しております。
 本文にもありましたが、個人単位では写真すら残すことが難しかった1995年、こうして文章に起こすことが精一杯となります。しかしそれでも、一つでも多く震災の記録を残したくて書き出しました。
 何かしら立派な訓示となるようなケースでは無いのかも知れませんが、震災という非日常は日常の中に唐突に投げ込まれ、人々は非日常の中で日常を生きることになるということを示し、有事の際の何かしらの参考になれば幸いです。


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