おっぱいが大きい自分は奇形だと悩むガキと、エロ本による救いの手
漫画から少し距離を置こう…(アベックか?)
となったはいいものの、やることがない。
いや、あるはずなのだけど、この時期は強制的にこたつという兵器が私の足に「あったか~い」という鎖をかけるものだから、そいつに捕まって出られないのである。
まぁそんな感じなので、バイトのない日は一日に二度更新してもウザッ!!と思わずこたつのように「あったか~い」目で見てくれたら幸いである。
最近、なぜ私がずっと「エロ本」に固執するのか、頼まれてもいないのに自己分析をしてみたところ、どうやら小学生、高学年の時に原因があるようだ。
その頃の私は、クラスで一番おっぱいがでかかったのである。
こうすると大抵、男子に「エロ女」とか言っていじめられたりする…と想像してしまうが、私の場合は女子にめちゃくちゃにいじめられていた。
ソフトボールの丸い固いボールを自分の体操服の中の、ない胸の中に二ついれこみ
「小骨さんのおっぱい~!!ぼいんぼいんっ」
…今思うと、
「え!?そんな汚いボールを素肌に密着させて、性癖ですか!?」
「自分のガリガリの体を真相心理上でコンプレックスに思ってそんなことをするんですね…悲劇だ…」
などの(脳内)言い返しが出来たかもしれないが、その頃の私は自分のおっぱいが生粋の奇形であると、本当にそう思っていた。
親も再婚していたばかりだったし、新しくできた義母に、性の話題は私の中で禁句であった。もちろん父親にも言えなかったので、ブラジャーもつけていなかった。
体育の度に女子にからかわれるので、本当にこのおっぱいというものが嫌いであった。
そして
小学5年生といえば、修学旅行がありますね。
ある日クラスの何人かの女に教室の隅に呼び出されて、何を聞かれるかと思ったら
「小骨さん…って、下の毛…生えてる?」
その時私は自分の下半身までも奇形であるということに気づいてしまったのである。
け、け、毛どころか…!!!!!!!!
そういえば友達の家に泊まりに行ったときに、その友達のおまんこはつるんとしていて、
(すごくきれいだなー私も前までつるんとしていたのに…なぜこんなことに…?)
と思ったことがある。
今の自分の性器はまるで複雑怪奇で…例えるなら、みんなは無人駅、私のは新宿駅のようであった。
あー!くんなよ修学旅行!!くんな!!バスくんな!!奈良なんていきたくねーよ!!
そんなことを思って毎夜自分の体につばを吐きながら、涙でまくらを吸い物に入っている麩か!?というくらいに煮詰めていたのである。
そんな時に私を救ってくれたのは、お偉いさんがみんなして大嫌いな「エロ本」であった。
幼なじみのエロガキ、スケベちゃん(高学年になりクラスは別れてしまっていた)と私は、小学校三年の頃から秘密裏にそれぞれの父親や兄のエロ本を収集していたのである。
収集といっても、ばれて捨てられてはたまらないから、二人でもちより、読んだあとにもとの場所にもどす…という感じである。
今日もそんな二人のお楽しみタイムであった。
自分がもってきたものから読むのがルールである。
父が義母の目から必死で隠していた引き出しの奥のスケッチブックとスケッチブックの間に挟まれていたエロ本。
おもむろにそれを開いてみる。
そこにあったのは…
巨大なおっぱいにむしゃぶりつく男の姿!!!!
よく見えない(モザイクの為)がおおっぴらに己が指で開かれておまんこ!!!!
女も男もとても嬉しそうである。
な、なんだ~これは…もじもじ…。という感情(性欲)とともに心底ほっとした自分がいた。
あ~大きくてもいいんだな。と思ったのだ。
文を読んでみると、女の人達のおまんこの説明が書いてあって「おおきめビラビラ」「ケツ毛びっしり!」など、ものすごい言葉の数々が、陽気なポップな文体で書かれていたので、幼なじみに見せ、二人で思わずケラケラと笑ってしまった。
この時に私は「人間の体がそれぞれ違うもの」と学んだんだと思う。
その形が嫌いな人もいれば、好きな人もいる。それだけのことだったのか私の体も。
その後も私はでかいおっぱいのことや修学旅行で晒したまん毛のことでいじめられたが、その時腹がたって悲しくても、
このエロ本のこと思い出すと、不思議と自分は悪くない気がして、楽になったものである。
もっともそのつもりで作ってないだろうが、そのエロ本は一人のクソガキの心を救ったのである。
エロ本による悪影響もなくはないかもしれないが、エロ本を凶弾している大人たちには、あの時の私は絶対に助けられないだろう。
ま、そんな話である。
真面目なようで実にくだらぬ話ですまん。
ハッピーヒッピー!
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