戯言

誰かにとって自分は大切であるように、誰かにとって自分は目障りな存在でもあるだろう。誰かにとって自分が興味をもたれる存在であるように、誰かにとってみれば、とりあげるまでもないくだらない存在でもあるだろう。

作品を作る人からすると、誰からも寵愛を受けれたら幸せだろうなと思うこともあって、けれども人って飽きっぽいし、興味関心を絞っていったりもするし、人の関係性も流動していくので、そのままってことはない。思えば人を惹きつけてやまないパワーを発信して、ファンを獲得し続けていくことはなかなか大変なことである。けれども創作意欲の泉を自分で湧き続けられたら、泉はいつまでも枯れたりはしない。

しかしまあ仮に、うまくいってても嫉妬されたりもするし、何かのきっかけで人との関係も壊れてしまったりもする。自分を知り、周りを理解できる、調和のバランスを保てる人は人との関係が長く続いてく人なのかなとも考える。あいにく、自分はそんなに器用な人間ではないので、無理だなーとも思う。なぜならば主張はしてしまうからだ。だからその時その時は瞬間的永遠的刹那的な魅力に溢れた時間であったんだと思ってやまないことは多い。しかしながら孤独で孤立を怖がっていて、何が作家だと思う気持ちもある。孤独でも孤立でも一人でも立つのが作家の本懐でもあると考えるからでもある。

生きていると考える予定調和の、誰しもが共通項にするような幸せの形にのっかれなければ幸せと呼べないことに対して違和感を覚えることもある。そもそもけして否定はできず、のっかることもまた幸せであるとも考える。しかしながら何かを手にした時に、今まで手の中にあった些細なものがわずらわしいものに見えて、手放したりすることは、それは束の間の幸せから行いがちな価値の放棄をしているのではないだろうか。ならば幸せになるために何かを処分してしまうことは、それは価値の尊厳の軽視につながるのではないだろうかなど。ならば小さな価値とはなんなんだろう、なんのために人は大きな価値に手を伸ばしていくのだろうと考えてしまうのではある。おそらくだからか、そこにあった些細なものを見つめるは自分のテーマになりうるのである。

こうやって頭をかたくして、色々考えると人ってたぶん思い詰めやすくなるんだろうなとも経験上気づいてはいる。だから感覚的に楽観的に生きることは美しいとも思う。とるにたらない存在であってもとるにたらない日常の人を介した気持ちの日々は、やはり愛おしいものである。

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