優しいを考える

人に優しくした瞬間に優しくしたことなんて忘れてしまえ自分って思う。
恩着せがましい優しさなんて重いだけだ。
ほんとに優しいなあって思う人は恩なんて着させないし、優しくするってことはけして自分に利得を得る為じゃなくて、相手がちょっとだけ心が軽くなれたら、それだけで意味はあるんじゃないかなとか考えたりもする。
くだらないことでも些細なことでふっと心が軽くなることを誰しもが望んでいるのなら、そんな感じでいけたら何よりだよなとも感じる。
優しいって言われるの実際あんまり好きじゃないのはなんかアシッドな感じがするのね。
優しいねと思われたいわけじゃない。
気風がいいねと思われたいのだ。
それ気にしないような軽やかな風をまといたいのである。
けどまあ優しいことをわかっているから優しいねと思われることもできるんだとしたら
優しいって主体的なものであると思うんだよね。
内在的にある行動意識というか。
だから第三者を介さない世界線なんだと思うんだよね。
だから誰かに何かを言われても結果が報われなくても、優しいことを考え、優しいと思う行動を取れたなら、それはそれで誇り高いものだと思うし、いいことなんじゃないかなとも思える。
しかしながら優しいと思ったことが他者から見たら真逆に見えることもまた人間の鏡の世界な気がしている。
正義の反対は真逆の正義だったりもするわけで、これは悪だなと思いながら優しいことをする。
そんな矛盾も感じたことはあるが、正義だと自分を信じてやまない悪を見たこともある。
人は見方によって解釈の仕方は多種多様である。
そのために賢人と呼ばれる人は何を大切にしたか。わかる人にはわかる問いかけである。

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