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幸せになるために不必要なこと

はじめに

3月から4月の間にセブ島の語学留学をしていた。
このnoteはその留学生活の中で、特にフィリピンの文化や負の側面を取り上げている。

これを書いたからと言って世界がどうなるわけでもないし、読んでくれたその人が幸せになるわけでもない。むしろ重たい内容もあるから精神衛生的にはマイナスかもしれない。

と言う但し書きをして本題。

フィリピンにて

フィリピンは東南アジアでは珍しいキリスト教、特にカトリック系の信者が国民の約90%を占める国だ。
日本とは違い、大小問わず街中には沢山の教会が見つけられる。


(写真は観光地としても有名なマゼランクロスとサントニーニョ教会)

生活にキリスト教の価値観が根ざしているのが、こんなところからも分かる。

こういった発見は、実際に現地を見て回ったからこそ得られる発見だった。
たぶんこんな細かいことはいくら書籍を読んでも知らずに終わる。
無駄知識だと一蹴される可能性も否定は出来ないけれど、神は細部に宿るというし、誰も意識しないようなところにその土地の文化は息づいていると思う。

そう、息づいている。
たった一つのボタンの有無が、僕たちの文化の違いを表わしている。

アジア圏で何故キリスト教がこれだけ広まっているのかを調べてみると、先の写真に出てきたマゼランが理由だった。要するに植民地支配だ。そして、そのキリスト教の文化が、思わぬところでストリートチルドレンの問題に繋がった。

フィリピンで広まっているのはキリスト教の中でも、カトリックの一派だ。
カトリックでは避妊・中絶を禁止していることが、フィリピンでストリートチルドレンを生む要因の一つになっているのでは、という指摘があった。

諸説あるし、決してそれだけが理由たり得ないことはわかっているけれど(自分の目で確認はしていないものの、避妊具自体は問題なく買えると他の留学生から聞いた覚えがある)、そう言った文化が及ぼす影響があること自体初めて知ることだった。

滞在していたITパークというエリアはセブ市内でも屈指の治安がいいエリアだった。
ただ、そこから1kmもしない場所の通りを1本外れただけで、路上で生活をする人たちがいたり、まだ小さな子供が赤ん坊をあやしていたりするのを見かけた。

子供達は僕を見かけると口々にこう言う。

「ありがとう」
「謝謝」
「カムサハムニダ」

特にこちらから何もしていないのに、だ。
たぶん子供たちはその意味も知らずに、外国人を見かけたらそう言うように教えられている。戦後の日本で「ギブミーチョコレート」と言われていたように。

泊まっていたエリアからほんの少し離れたところにそんな暮らしをしている人たちが居る。
あまりに歪な光と影に言葉を失った。

現地に住んでいる日本人の方から、こんな話を聞いた。
現在リゾートを開発している部分では、もともとそこに住んでいた人たちを立ち退かせたという経緯があるそうだ。
その人たちもそもそも土地を所有していたわけではないそうだけれども、土地を追われた人たちの一部はいまも住む場所が見つからずに市街地で路上生活をしているとのことだった。

他にも、経済的に発展途上の国にありがちなのか、こんな話も。

技術の発展によって犯罪が暴かれていく一方、公権力が圧力をかけて取り締まろうとしているのは歴史の過渡期を見ているようだった。

ちなみに、卓上のDRが禁止された結果、バックミラーに取り付けられるタイプが爆発的に売れたらしい。権力にアイデアで喧嘩を売るのめっちゃ好き。もっとやれ。

暴かれた悪事そのものを深くは書かないけれど、フィリピンは銃社会だ。現地の人たちは面倒な手続きもなく買える。そのためか、強盗対策のためにガードマンが街中の店舗に常駐してる。
日本では麻薬犬のイメージが強い警察犬も、フィリピンでは主に火薬を対象に調べているなんて話も聞けた。
実際●●のオーナーが撃たれた、なんてニュースもちょっと調べただけで出てきた。

命の危険を感じることがない日本は、本当に心から平和だと思う。

普段当たり前のように享受していることが、他の国では当たり前でないことがざらにある。

・トイレに紙が流せること
・水道水が飲めること
・いつでも電気が使えること
・平和なこと

そうでないこともあると知識として知っていても、実際に目の当たりにすると衝撃だった。

幸せになるために不必要なこと

ここに書いたことは、正直知らなかったところで何も差し障りない内容だろう。
日本からはるか遠くの国で格差問題があっても、日本は変わらずに平和だし、今日もご飯は美味しい。
雨の音を聴きながら珈琲をお供に本を読むし、晴れの日には運動して気持ちよく汗を流す。

そんな当たり前の中に今の自分は居る。

でも、以前はその当たり前が目に見えなかった。

前職で会社員として働いていた時、それはもう息苦しくて仕方なかった。

「こうするのが普通」
「社会人なら常識」
「学生ならこうあるべき」

普通教の信者か、あんたらは。
自分で自分に首輪を繋いで、勝手に自由から逃走しているくせに、周りに同調を求めるな、鬱陶しい。

「幸せになりたいのなら、右に倣え」
「余計なことは考えなくていい」

言外に発せられたメッセージに辟易する。
飲み会で部長たちの太鼓持ちをし、終わって解散をした途端に愚痴大会に興じる、そんな未来に幸せを感じられるわけもない。
ゆっくりと処刑台の階段を登っていくような、緩やかに絹糸で首を締めれられていくような、漫然とした息苦しさ。
穏やかな自殺をしているみたいで、会社勤めをやめた。

息苦しさの理由を漠然と求めて海外に行った。
「向こうの人たちは心が豊か」なんて毒にも薬にもならない話はやめておく。先に書いたように、彼らには彼らなりの絶望があるんだから。
日本にだっていいところはあるし、無条件に海外を礼賛することはしない。

ただ、日本での当たり前が、違う国ではそうでないことがある。
それを知っただけで、息苦しさは随分と緩和された。

幸せになるために、知らなくてもいいこと・必要のないことは沢山ある。
箱の中の猫の生死だって、僕たちの人生にはなんの関係もない。
沢山の不必要に囲われて、今を生きている。

でも、その知らなくてもいいことの中に、知っていてよかったと思えることがある。

通勤中に猫を見かけて足を止めた時のように、周りの人は目もくれずに去って行ってしまうかもしれないけれど、そんな不必要なことを切り捨てずにいられたら、常識で濁った眼鏡を外すきっかけくらいにはなってくれる。

今日も雨が降っている。

次は何の本を読もう。

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