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プテラノドン

「卒業式に教育的意義なんてない!(少なくともゼミの課題以上の…)」

と書いてしまうと全てが終わってしまうので,
卒業式の「教育的意義」を必死に考えてみた。


大学の卒業式は多くの人にとって学生最後の日であろう。

大学生は「生徒」ではなく「学生」だ。

教師が教えることを正しいと信じ,
教師の教えに従順であることを求められる「生徒」ではない。
「教員」や「研究者」という着ぐるみを着た
「(時に無邪気な)学生」と対峙し,
相手の主張に間違いがあると思えば
率直な疑問をぶつけ議論する,
対等な「学生」なのだ。

大学生から脱皮すると「学生」は「社会人」になるらしい

会社の命令は絶対だ。
「ほうれんそう」が絶えず求められ,
「ほうれんそう」が必要かどうかなんて考えてはいけない。

それでいて,
「そんなこともできないのか!」
「言われないと行動できないの?」
「少しは自分で考えろよ!」
と言われたい放題。

上司のご機嫌を伺い,社内の空気を読む。
言いたいことをオブラートに包み,
オブラートに包まれた「劇薬」を飲み干す。
凡才のフリをして,秀才の結果を残す。
天才かどうかなんてどうだっていい。

高度に全般的な技能を持つ社会的人材,
それこそが「社会人」。


さて,「社会人」の皮が剥けると人は何になるのだろう。

「脱サラ?」
「隠居?」
「自由人?」
「無職?」
「世捨て人??」

いずれにしても,
その皮の下には大層なものが隠れているらしい。

どうりで「脱皮」が怖いわけだ。
それでいて,突然,その皮は引き剥がされる。
不況や病気や家族の都合で,いとも容易にペリペリと。
定年退職までやり過ごせれば御の字だ。
その頃,皮の下には何が残っているのだろう?


卒業式を最後に皆さんは「学生」の皮を思い切り脱ぎ捨てる。
おめかしした女子学生が卒業式帰りに晴れ着を着付け屋に返却するように。
何の躊躇いもなく,至極あっさりと。

でも,少し待って欲しい。

「学生」という皮を脱ぎ捨てるのではなく,
「社会人」という着ぐるみを着てみてはどうだろう。


知識も教養も語学力も「社会人」には「蛇足」かもしれない。
鼻つまみ者にされるかもしれない。
スマホゲームのほうが楽チンだ。

でも,蛇は大地を走り回るトカゲが羨ましいかもしれない。
トカゲは太古の空を自由に飛び回っていた
プテラノドンに遠く想いを巡らせているかもしれない。
「蛇足」も「トカゲ翼」もそんなに悪いものではない。

そもそも諸君は本当に「蛇」なのか?


足のないトカゲも翼のないプテラノドンも
決してサヴァイヴできないだろうに。


で,元に戻って卒業式の教育的意義なのだが,
ひとつ気づいたことがある。

卒業式(直前)くらいは「着ぐるみ」の話を有難がって聴いてくれるだろう,と。

だからブログを書いてみた。
これは「送辞」ではない。
着ぐるみ生活がだいぶ板についてきた「学生」からの新入生歓迎の挨拶だ。
ようこそ「ハイブリッド社会人(&学生)」の世界へ。

学び続けることで足も翼も生えるはずさ。
お互いプテラノドンになって,
何処かでまた会おう。



*ヘッダーの画像はクリエイター:n******************pさんが提供するフリー素材です。
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ゼミ生と酒盛りします。