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表現とは対話である -Out Hedge 2023を終えて-


優勝しました、アウトヘッジ。


小学校高学年、思春期に差し掛かった頃から、他人と会話するのが苦手になっていた。仲の良かったクラスメイトの話すことについていけないような感覚があり、自分が発言すると空気が凍ったような気がしていた。自分がヤバい奴だと思われているような気もしていた。実際にそうだったのかも知れないし、自分の思い過ごしだったのかも知れない。ただ他人の目線が怖くなったのは事実だし、コミュニケーションって難しいと感じていたのも事実だ。

その後年齢を重ねるにつれて同じ悩みは抱えていたものの、テンプレート的な会話というものを覚えて、ある程度他人と当たり障りのないコミュニケーションをとることは出来るようになったと思う。しかし、その実は当たり障りのないだけで、芯まで届くような言葉の投げ合いは中々出来ないのが事実。大学を卒業するまでは、ずっと当たり障りのないことしか話していなかった気がする。

このようなバックボーンがあったので、自分の考えを発信するという行為自体がとても苦手だった。これは言葉を使ったものだけでなく、ダブルダッチを初めとする表現活動でも同じだった。バトルもショーも、自分の奥底を出しきれない。他者との芯食ったコミュニケーションが苦手なので、当たり障りのないものを量産していた。もちろん僕が僕の思想や欲求を出力しうる技術がなかったというのは多いにあるが、それにしても表層をなぞってばかりだった。

が、その後大学を卒業し、Call me a DIVAを組んで……という感じ。何度か思日記に書いているのでそちらを見ていただければ。

要約すると、一回本当に良いものを作ってみようと思ってやりたい放題やったら思った以上に評価されたから少し自信がついたって話。


やりたいショーをして、評価されるようになるにつれ、チームメイトとの会話も熱を帯びるようになっていった気がする。良いショーを作るには恥を承知で自分のフェティッシュを開示する必要がある。時には険悪な雰囲気になることもある。が、今現在でも僕はまだまだ会話は得意じゃないと思っている。会話の中で自分だけが遠くにいるような感覚になることは多々ある。

そんな自分のとって作品を披露するという行為は、いつしか会話以上本音のコミュニケーションとしてのツールになっていた。考えに考え抜き、自分の嗜好を詰め込み、その時点の自分が作れる最高のショーを見せ、観客と審査員に問いかける。面と向かった会話に込めることの出来ないドロドロとした心臓のざわめきをまっすぐ他人にぶつけることが出来る。だから僕はショーを作るのが好きなのだろう。

よく”他人の評価は気にしない方がいい”と聞く。特にパフォーマンスや芸術というものには勉学やスポーツと違って明確な答えがないのだから、他者の評価よりも自分がどう思っているのかの方が大事であるという考え。僕も概ね同じことを思っている。自分の人生だ、他人と会話する時間よりも自分と向き合う時間の方が長いんだし、自分の機嫌を取れるかどうかの方がよっぽど大切だ。大会で勝った負けたよりの事実よりも、自分と仲間と何かを作り上げるという経験の方が何倍も美しい。自分の腹の底にある美しさと醜さを見せつけてやれ。

これと同じで、他人からどう思われるかも気にする必要もない。他人は変えられないが自分は変えられる。自分を愛し、最高の自分で人生を生き抜こう。





だけどね、本当に気になるよね。他人が僕をどう思っているか。幼い頃、他人の目線が気になり始めたのと同じで、自分の作った作品がどういう評価をされるのかが心の底から気になってしまう。”自分が良いと思っていれば他人の評価なんてどうでもいい”ってのは建前で、他人からよく思われたいんだ、僕は。

アウトヘッジでもめちゃくちゃ良い点数をとった。ノーミスに近いショーができて、そらもう優勝に手が届くくらいに評価されたと思う。やっぱり本当に嬉しいですね。HKRさんは100点をつけてくれて。本当に嬉しかった。

でもその後で、二部が始まってから他のチームの点数が怖くて怖くて、会場内のモニターで見るのが嫌で下の階で1人で座っていたんだけど、上の階から声が聞こえてきたり、終わったチームの人が通ったり、会場にいるとどうしても他のチームの情報が入ってくる。なのでコートを着て1人で街に出た。20分くらいかな、渋谷の路地をふらついていたと思う。その時に、僕はなんて弱いんだろうと思ってしまった。

他のチームのキラームーブが通って、僕らより良い点数を獲得したらどうしよう……そんな不安を飼い慣らせないまま1人で歩いていた。結局満足のいくショーが出来ることよりも、他人から一番良い点数をつけてもらうことの方を重視している自分に失望もした。結局僕も勝ち負け、他人からの目線の方が大事なんだと。

インセイン組のメンバーには、「もちろん優勝する為のものは作るけど、一番大事なのは良い作品を作ることだよ」なんてことを伝えていたが、僕自身がその考えから一番遠いところにいた。


そんなことを考えながら夜の路地を歩いて、改めて作品を作るというのはコミュニケーションだということを理解した。結局見てくれる人と、点数がつくシステムが無ければここまで頑張れなかったと思う。真っ白い部屋でこのショーを披露しても、ここまでの熱量は込められなかったはずだ。他者がいるからこそ自分の存在が明らかになる。自分の存在以上に他社の存在は大きい。人間ってそういう生き物だ。

会場に戻ってくると、他のナンバーは全て終わっていて、僕らの点数が1位だった。ほっと胸を撫で下ろしつつ、残ったコンテンツを楽しみ、観客投票のポイント込みの結果発表でも1位を取ることが出来た。チーム名がコールされた時の感情って、嬉しいはほとんど安心の方が強かった気がする。むしろ少し虚しくもあった、優勝したはずなのにね。

勝ち負けが分からない時は他人の目線が気になって、評価が得られたら虚しくなって。一体僕はどこにいるんだろうか。どこで生きているんだろうか。もしかしたら、本気でショーをしている時間以外は全部嘘で、一瞬の煌めきだけの為に灰色の時間を過ごしているのかも知れない。



そんなことを考えて、色々と悩んでいました。気がつくと二週間経っていた。ショーに関するまとめ記事とかメンバーへの言葉とか、そういうの書けないくらいには。ある程度時間が経過して、急に書きたい気持ちが湧き上がったので衝動的に書いてます。タイトルには表現とは対話であるなんてあるが、だいぶ話が逸れてしまった。本来なら「ショーという手段を使って、心の底からの対話をしたい。表現は対話だ。次も本気で向き合おう。」みたいな熱い感じで締めて良かったんだけど、書けば書くほど答えは見つからず、虚しさだけが溢れてしまった。

もちろんめちゃくちゃ嬉しいし、インセイン組のメンバーとはかけがえのない時間を過ごせたと思う。ショー終わりに言った「僕を媒体にして皆が仲間になってくれたのが嬉しい」という言葉だけは100%真実だ。いつまでも仲良くいて欲しいな。

表現、いつまでも苦しさを伴う。ほんの一瞬の一瞬だけ喜びがあって、過程はずっと苦しいし、過去になれば虚しい。ダブルダッチ以外でもそうで、面と向かった会話が苦手な僕は、別の何かを用いた表現と向き合い続けないといけない。残りの人生を人間らしく生きるなら。

今回は多くの人に認められる良い作品を作ったと思う。でも優勝してしまえば既に過去で、栄光に浸るわけにはいかない。良い作品を作ってしまえば最後、自分も他人も、次にもっと良い作品を求めてしまう。本当に恐ろしい話だ。コンテスト、正直かなり苦しいところがあるが、逃げるわけにはいかない。良い作品を作り上げて、喜びを分かち合って、生きてるって実感したいんだ!



というわけでアウトヘッジを通じて思ったことでした。動画、貼っておきます。いつまで経っても公式からアップされないから限定公開だったのを公開します!!!!!!!!!!!!!!見て!!!!!!!!!!!!!!!あと正面からの高画質のアングルあったらください!!!!!!!!!!!
かなえのソロとか全部隠れちゃってるし。ぜひ。公式カメラの映像あればお手隙にアップしてださい〜〜〜〜〜〜〜〜。

ショーの解説はしないでおきます。見た人が受け取ったままに感じてもらえれば…… って思っていたけどそのうちやります。結構色々考えているので。

では!



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