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岩内町郷土館令和5年第三回企画展「岩内少年団下田豊松の功績」⑥Activist(行動する人)下田豊松伝説

 世界が、戦争の時代へと緩やかに下っていきます。ボーイスカウト運動と団員であった少年たちもまた、その運命に翻弄されていくことになります。 

(『ベーデンパウエル伝』より)
「1930年代、イタリアではムッソリーニの支配下で、ボーイスカウトはファシストに吸収されてしまった。1933年にベーデン・パウエルはムッソリーニに面会したが非常に失望した。ムッソリーニは、ファシスト少年団はボーイスカウトそのままであると豪語した。
 ベーデン・パウエルは、形式は同じでも、その精神の根本的に異なっていることを指摘した。ファシストの官製であるのに反し、ボーイスカウトは自発的であり任意であることをムッソリーニに伝え『狭い国枠でなく、国際的であることを要す』と強調した。
 ムッソリーニのファシスト少年団は『バリラ』と呼ばれていた。ベーデン・パウエルは、ムッソリーニの少年訓育の方針に大きな失望を感じた。」

「ヒットラー・ユーゲント(ドイツの少年団)が、ヒットラーに魅せられて催眠状態になっていくのを、ベーデン・パウエルは、分析して見守った。ムッソリーニと会見した当時と同様の印象であった。」


ボーイスカウト運動創始者 ベーデン・パウエル

 国際連盟が設立した1920年、この同じ年に第一回のボーイスカウトジャンボリーが開催されたのでした。ここに、日本の代表として、下田豊松も参加していたのでした。世界中の青少年が友好を深め、高い志をもって交流していたのです。
 しかし大きな権力が、その理想をあらぬ方向へ捻じ曲げてしまう。ベーデン・パウエルの失望はいかばかりであったかと、想像します。

健児団の修練キャンプ地をさがすために入ったチセヌプリの奥地で、神仙沼を発見した。「皆が、神仙の住みたまう美しい沼との印象を受けたので『神仙沼』という名はどうか」と豊松が命名。

 その頃、北海道で豊松はどんな運動をしていたのでしょうか。1928(昭和3)年には、少年団のキャンプ地を新たにさがすため、入った山の中で偶然、「神仙沼」を発見、命名しています。現在も神仙沼は、後志管内でも人気の高い観光スポットとなっています。

共和町にある神仙沼の由来を記した看板。
現在は軽いトレッキングで自然を満喫できる、人気の観光地です。

 豊松はこのほか、倶知安町の産業誘致や、開発、道路の敷設など、町の公共事業に積極的に取り組み、私財を費やして郷土のために奔走しています。その姿は「公共道楽」とも呼ばれました。


後藤新平伯爵 少年団日本連盟初代総長

1926(大正15)年、下田豊松は少年団日本連盟の総長であった後藤新平伯爵と会っています。
当時、政治の倫理化運動で全国各地を遊説していた後藤新平は、北海道での遊説の帰路、列車の中で豊松と面会しました。(昔の人は、移動中の列車の中で会談をすることがよくあったのですね。)

全国組織として出発した少年団日本連盟は、トップを後藤に中央メンバーで新たに国際登録しようとしたものの、下田豊松が大正10年にすでに登録を済ませているので、再登録が出来ないとのことで事務方が難渋していました。豊松が考案した、三種の神器をモチーフとした少年団徽章(シンボルマーク)についても、その意匠登録を譲ってほしいと連盟側より請願されたのですが、豊松はそれに応じませんでした。下々が話を進めることが出来ないので、後藤新平は移動の列車中に豊松を呼んだのでした。

親しく会話を交わした後「いつでも私のところへ遊びに来なさい」という後藤伯爵の言葉に、返した豊松。「こちらにもシンプルで来られたい。政治の倫理化運動や大名行列は御免蒙る」

傍にいた後藤の側近が嫌な顔をあらわにしていましたが、政治運動と少年団運動を、混同することはできない。豊松がこだわったのはその一点でした。
のちに豊松は、別の人の仲介で一切の登録、権利を少年団日本連盟に無償で譲渡しましたが、その後の運動については何も語らず、少年団運動から徐々に離れていくことになります。

1935(昭和10)年、少年団日本連盟は「財団法人大日本少年団連盟」と名称を変更。国策として運営され、変容していきます。その様子を見た豊松は、あるいはベーデン・パウエルと同様の、大きな失望を感じていたのかもしれません。(つづく)






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