見出し画像

岩内町郷土館令和5年第三回企画展「岩内少年団下田豊松の功績」⑦(最終回)Activist(行動する人)下田豊松伝説

 終戦間際の1945(昭和20)年1月、58歳の下田豊松は召集令状を受け取りました。倶知安の北部第三〇一一七部隊長を任ぜられ、町内に残る青年、壮年男性を招集し、出征のための準備をしますが、その頃にはもう全国的な物資不足で、部隊には武器も軍服も支給されず、兵士たちの食糧にも不足するような有様だったといいます。

 8月15日敗戦。在郷軍人会長であった豊松は、公職追放となりますが、この時、豊松は妻や家族にこう言ったそうです。
「自分はこれから、戦地から帰ってくる引揚者のために働くので、家のことは一切しない」
 そして郷軍兵舎の建物を授産施設「佑天舎」として開設、運営します。後には「北生社」と名を改め、復員兵や戦地引揚者のため、竹細工や洋裁といった作業を行う場所を作り、その生活を支援する福祉事業に力を注ぎました。

昭和31年6月30日付 北海道新聞

 一方、日本のボーイスカウト運動は、豊松がその活動を離れて以来、戦時中に一時消滅しましたが、1950(昭和25)年に新たな「ボーイスカウト日本連盟」が誕生し、国際事務局に再び登録されました。

 1955(昭和30)年、その日本連盟宛てに、デンマークのボーイスカウトから一通の手紙が届きます。「日本のナカムラさん、シモダさん生きていたら連絡を下さい」という内容で、その当時の日本連盟では、大正13年にデンマークにおける第二回ジャンボリーに参加した、中村耕平(後の北海道穂別町長)と下田豊松について、知る人がいませんでした。
 そこで新聞を利用して情報をつのったところ、北海道のこの二人が健在であるという事が分かりました。この時、ボーイスカウト運動における下田豊松の功績が、戦後に初めて再認識されたのです。
 翌昭和31年には、日本連盟より豊松へ「感謝章」が送られました。

1971(昭和46)年8月1日付 読売新聞

1971(昭和46)年に、ボーイスカウト最大の行事「世界ジャンボリー」が、日本で初めて開催された時には、豊松は全国紙の取材も受けています。大正9年当時の、ロンドンでの第一回世界ジャンボリーの思い出などを語り、戦後の新しい時代のスカウト運動に、感慨もひとしおだったことと思います。


1974(昭和49)年8月 千歳市にて開催された「北海道ジャンボリー」にて
皇太子殿下(現上皇陛下)に拝謁する下田豊松

 
 1974(昭和49)年、北海道で初めて「日本ジャンボリー」が千歳にて開催された時、最高位「先達」の称号を日本連盟から授与されていた豊松は、ジャンボリー開催の地千歳において、当時の皇太子殿下(現上皇陛下)に拝謁しました。殿下は87歳となっていた豊松が、大正9年の第一回世界ジャンボリーに参加したことをご存じであり、その様子について質問されたといいます。
 往復半年にわたる倫敦への船旅、ベーデン=パウエル卿から歓待され、世界中のスカウトから「ジャパン!」と歓声を受けたこと。制限時間をオーバーしても、殿下にそのお話を伝えられた事は、これまでの長い人生に起こったさまざまな出来事が、報われた時でもあったのではないでしょうか。


豊松八十六歳の時の短歌(豊松曾孫の井原由加子さん提供)


 今回、ボーイスカウト日本連盟の100周年を契機として、改めて岩内の偉大な先人、下田豊松の功績を振り返る企画展を開催する事ができました。
 時を越えてひしひしと伝わる岩内の「人間力」は、現代を生きる我々への力強いエールとなりました。

 時代の波に折れそうになった時は、豊松さんを思い出して下さい。
「それでも、いっちょやってやるか」。そんな思いがきっと溢れてきます。
 (^^)/

 この度の企画展開催にあたり、ご協力を頂きました関係各位に心より御礼を申し上げます。

(了)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?