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表現とまちづくり

水辺空間を生かしたまちづくりで、さまざま方々に出会い、あらたな可能性を押し広げてきたが、なかでも特に心に残ったのは、いろんな人々の表現の場に対する思いである。

表現には、さまざまな形がある。トップの写真は、和歌山の水辺の社会実験「ワカリバ」のオープニングで自分の歌声を披露してくださったソプラノ歌手の方である。

こちらは、和歌山で50数年活動してこられた内川を綺麗にする会の方によるボランタリーな小学生への環境学習講座

開業することもある種の表現である。あらゆる事業も表現の一種なのかもしれない。

自分では表現だと思っていなくても、相手が表現として受け取る場合もあろう。これまでまったく使いこなされてこなかった川にあらたな利用方法がうまれ、それがまちの景観資源、つまり公共的価値になることだってある。

その公共空間が気持ちいいから、ベンチと椅子を提供する。これだって表現。

橋の下世界音楽祭は、豊田市の河川敷で行われるロックの祭典。それが、豊田市の河川敷でしかなしえない表現をやりきっていて、唯一無二の存在に。

表現は大がかりのもの、小さいものがある。小さいものは表現と呼ばれるものに違和感がないが、大掛かりなものは事業やイベントと呼ばれることが多い。定義が非常に難しいが、私は個人あるいは集団の内発的動機によって社会に表出し、一般の鑑賞や体験が可能になるものが、表現と捉えている。

表現の自由がまちづくりと密接だと考えるようになったのはなにも最近の話じゃない。でも、ここまで重要な話なんだと気がついたのはここ最近である。

表現することの価値は、表現者としての自由を担保することだとずっと思ってきた。ところが、表現というのは、広くたくさんの人々の生活を一変させる可能性そのもののことであり、個人的存在であると同時に、社会的存在でもある。

表現によってうまれた様々な価値観が社会を動かしてきたことはこれまでも明白である。個人の内発的動機は、個人に戻されるだけではなく、社会としても必要なこと。表現の自由が、社会にとって必要であるという社会的合意が、公共空間活用では問われる。

表現の自由の濫用が、他者の基本的人権を侵してはいけない、という価値観が、公共空間における表現の可能性を、制限してきたと言える。表現の自由より、秩序の維持に関心が高いのではないかとも感じる。

バンクシーが書いたと思われる、ネズミのグラフィティーが世間を騒がせている。都庁にかかってくる抗議の多くは、公共物への落書きのなかで、なぜこれだけは特別な地位を与えるのかというものどそうだ。
ただ、公共の価値観は民意が決めるものでもある。13年前に描かれたこの作品が、多くの人の目に触れながらずっとここにあり続けたのは、公共に周知され衆目をあつめされつつ残されたという事実であるし、間接民主制で選ばれた首長が直接「かわいいねずみ」として世の中にはその存在意義を問いかけたという、公共的意思決定を経たものとでも言えよう。

これから、この「作品」(残念ながらバンクシーは認めていない)の扱いは、民意の意思決定によって決まることだろう。その時、われわれは「表現の自由」という価値観と向き合い、その価値をどう社会の中で位置付けるのかを真剣に議論することになる。

西欧的価値観の中では、基本的人権のなかで、表現は優越的な存在であるという。

日本は、個人主義が戦後台頭したとは言え、なぜ基本的人権が社会を構成するために必要なのかの議論を広くしてきたとは言えないのではないか。また、全体主義とも向き合えなかった。

そんな、戦後思想史の最前線に、まちづくりという主体的活動、そして、公共空間における「表現の自由」というあらたな戦線が加わり、今後どのような議論が起こるのか、楽しみな世の中である。



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